ピアノの上の猫 某は猫でござる。色は黒、少しだけ尻尾がふさふさとして太く見えまする。生まれはどこかと問われたら、優しい母御の腕の中で、みゃあみゃあと鳴いていた事だけは覚えておりまする。しかしその後、どうしたのか、思い出したくもない程の衝撃がございまして、気付いたら優しい母御の腕からも逸れ、銀色の檻の中で過ごしておりました。 時々中を覗いてくる人間は、水も食べ物もくださいます。頃合いを見て、沢山の人間が某を見ておりましたが、誰一人として某を抱きしめて下さりませんでした。 でも、あの人が――あの時の事は忘れられませぬ。 通りかかって、横目で某を見つめて、そして立ち止まりました。某は与えてもらっていた褥で丸くなっておりました。視線にも慣れていたのですけども、でもあの人の視線に気づいて首を伸ばしたのです。 にゃあ。 あまりにも見つめるので、試しに鳴いて見せました。すると直ぐに踵を返され、その場から立ち去りました。 こんなものでござろう。 今までも誰も某を抱きしめてはくれませんでした。だから、今回もかなわぬのだと諦め、伸ばした首を再び引っ込めて丸まろうとしました。 「すみません、表の…あの子!」 その直後に駆け込んできたあの人は、手に紙切れを沢山持っておいででした。それが後々、お金と呼ばれるもので、人間には必要なものであると知りました。 ――キィ。 ずっと開くことがないと思っていた銀色の檻の扉が開きました。店の世話人が手を伸ばして某を掴もうとされたのですが、どうにも怖いような気がして毛を逆立てて威嚇しました。動く手から逃げ回り、でも小さな檻です。逃げ切れるとは思えません。 「おいで、ね?」 一度、世話人の手が引っ込んで、そしてあの人の声がしました。不思議と安らぐ声で、一気に身体から緊張が解けたのでございます。手に握りしめた紙切れを店の者に渡したあの人は、某に手を伸ばされました。 「うわ、小さいなぁ」 大人しくあの人の手に持ち上げられた某は、初めて彼の人を間近で見つめました。 某と同じ、緑色の眼でござる。 彼の人の手は大きく、指が長く、某の身体は全て包まれてしまいました。両手で某の身体を包み込んで、彼の人は頬を寄せて微笑んでくれました。世話人は何やら彼の人に話しかけていましたが、きっぱりと言い放って居られた言葉に、某の耳は動きました。 「この子に決めてるんで」 「――…にゃあ」 もう一度、呼びかけてみました。彼の人を何とお呼びしたら良いのでしょうか。まずはそこから教えて頂きたいと思いつつ、某は初めて温もりを知ったのでございます。 秋から冬の雨の日はどうにも寒くていけませぬ。 ふわふわとした布団の中で丸まりながら、身体を伸ばし、先ほどから大音量で響くピアノの音に自分の耳を掻いて、近くにいるであろう彼の方へと肉球を向けました。 「ん…」 「にゃああ、にゃああああああっ!」 (起きて下され、起きて下され!煩うて適いませぬーっ) しきりに彼に向かって叫ぶと、彼は身体を反転させてから、再び布団を引き寄せました。某は暖かい布団から身体を躍らせて彼の顔の前に座りました。 ――たしたしっ。たしたしっ。 軽く手(前足)でパンチを致します。 「んー…旦那、もうちょっと寝させてよ…」 「ぐるるるるる、ぐるるるる」 唸って非を説くと彼は「起きる」と嘆息してから手を伸ばし、けたたましく鳴り響く目覚まし時計を止めました。そして某の頭を掌で撫でると、大きな欠伸をしつつ今度は某を自らの胸の上に乗せて見上げてきました。 「旦那ぁ、今日も可愛いねぇ。俺様、お仕事行きたくないなぁ」 「にゃっ!」 (却下でござるっ!) 見下ろす彼――我が飼い主、佐助はそんな軽口を叩きました。申し遅れましたが、某、幸村と申します。黒猫でござる。尻尾の毛が長く、ふわふわとしておりまして、そこだけ少し太く見られまする。全体には短毛、ただ肉球はピンク色をしております。佐助はよくこの肉球を弄っては癒されると申しますが、あまり触ってほしくないのが本心でございますれば――いや、話が逸れました。 「は〜…今日は何処のスタジオだっけ?」 彼は意を決してベッドから降り、テレビを付けました。某も共にベッドから降り、彼の傍に行きまする。 ばさっ。 「――…ッ」 急に佐助が衣服を脱ぎだしたので、某、ひとまず顔を背けておきます。同性と言いましても何やら人間はつるつるし過ぎていていけませぬ。観ていると何やら下腹のあたりがむずむずするというものでして、いやいや目をつむるが礼儀でござろう。 「今日は録りが結構あるなぁ」 長い指先が目の前に迫りました。すると佐助は赤いリボンを某の方へと向けて寄越します。それが外に赴くときの合図だというのは存じておりますが、けーじ、というものに入るのは好きではござらん。 「旦那も今日は一緒に出勤しよう。ね?赤いリボンつけてあげる」 「みゃぅ」 小さく鳴いて見せると、彼は某の首もとに赤いリボンを絡め、ゆるく巻いてくれました。 佐助は我が飼い主――某が知っているのは、彼がスタジオミュージシャンというものだということと、昔は有名なピアニストだったという事でござる。それが事故を切っ掛けにして引退したとの事で、復帰したころに某と出会ったという訳でござる。 これは本人から教えて頂いたことでござる。 「さぁて、お仕事行く前に一曲弾いてから行こうか」 「――ッ!」 「おいで、旦那」 佐助が手招きを致します。そんな時、大抵某の至福の時が訪れまする。 ――ぽーん。 軽い調子でピアノの音が響きます。佐助の家はそんなに大きくございません。それもその筈で、なんとグランドピアノという大きなピアノがありまする。防音設備の整っている部屋だという事で、毎朝彼は何かしらそこに座って弾いてくれます。 「今日は何を弾こうか?」 ――とん。 軽やかにピアノの上に移動し、某が彼の手元を覗き込むと、彼はくすくすと笑って大きく指先を動かし始めました。 ――ぽん、ぽぽん、ぽーん。 軽い調子の音が零れます。彼が指を動かすのがまるで魔法のようで、某はじっとそれを見つめるのでござる。そして響く音の振動が心地よく、また彼の視線と合うのが心地よく、至福の時でござる。 本日はバラードだという曲を佐助は弾いてくれました。その間、時折彼の歌声も聴けます。耳をぴくぴくと動かしながら聞いていると、彼は優しげな瞳で此方を見つめ、そして額を寄せてきます。 「旦那が聴いてくれるなら、ずっと弾いていたくなるね」 「――くるるる」 咽喉が鳴って仕方ありませぬ。前足を伸ばして彼の肩にすべり込み、尻尾を彼の首に巻きつけると、優しく彼は某の頭に唇を触れさせて下さるのです。 「旦那が人間だったら…恋しちゃってるかも」 (恋…?) 顔を起こして観ると彼はほんのりと頬を染めて「何言ってんだ俺」と口ごもっていました。しかし某にはとても気になる言葉だったのです。 なんとかして佐助に喜んで貰いたくて、話をしてみたくて、と欲望が膨らむのは早かったように思います。 彼の仕事場のスタジオに一緒についていくと、ふと同じような猫に会いました。しかしその猫は真っ白な姿をしておりました。 (お仲間でござるね。何処の御仁か) 某は同じ猫にあったことで誰何を致しました。すると目の前の白猫は背中をすらりと伸ばし、そして某を見つめたのでござる。 「お前、どうして猫の姿のままなのだ?」 (――…?) 言われたことが解らずにいると、視線が急に変わりました。目の前には美しい人間のおなごが居り、金の髪をなびかせておりました。 「お前は生まれながらの猫又であろう?人型になれるものを」 (人型…?某、猫ではないのでござるか?) 不安に思って見上げていると、ひょい、と尻尾を指さされました。其処を指さして彼女は「もうすぐだ」と告げていきます。 「かすが?かすがー?」 (謙信様っ!) 女子は急に元の白猫に戻りました。そして声の方向へと走って行きました。その尻尾が、二又に分かれているのを某は見逃しませんでした。言われてから自分の尻尾を見つめると、どうにも芯が二本あるように思えました。肉球で踏んでみて、自分の尻尾を両手で挟んで転がっていると、くすくすと上から笑い声が響きました。 「旦那ってば、何やってんの?」 「にゃああああああ」 (これは失礼した!もうお仕事は終わりでござるか) 寝ころんだままで問うと、佐助は某を救い上げて抱きしめて下された。そして背を撫でてから、唇を某の首筋に滑らせていく。この熱が心地よくて、某の咽喉がぐるぐると鳴ってしまうのでござる。 「今日は調子良かったよ。ね、旦那、好きな猫缶買ってあげるから選んでね」 「――っ!」 (猫缶!まぐろが良いでござるっ) 食べ物につられて尻尾をゆらゆらと動かすと、彼は某を肩に乗せたまま、そっと外に出て行かれました。そしてこの数日後、某は初めて人型になり、佐助の眼の前に立つことになるのです。 でもそれはまた後ほどのお話でござる。今はただ佐助と、佐助の奏でるピアノの音に満足するだけの黒猫でござる。 某は猫でござる。佐助と共に暮らす、黒猫なのでござる。 了 111030/120105up |