Cheer!cafe



 佐助の甘い囁きが耳朶に刻み込まれてしまったようだった。

 ――愛してる。

 その一言がじわりと胸に広がって、何だか泣き出したいような衝動に駆られた。探していたのはこの人なのだと、ずっと一緒に居たいと想った唯一の相手だとさえ感じた。
 誰もが伴侶を得る為に誰かを探しているとするのなら、それは佐助以外に居ないとさえ想った。
 彼の甘い囁きに同じように頷きながら、彼にも伝えたくて仕方なかった。でもその前に熱い波濤のように押し寄せる快楽が、全てを飲み込んでいってしまった。










 其れまでの幸村の味覚には、コーヒーは苦いものでしかなかった。もとより甘味が好きな性質をしていたので、余計にコーヒーは甘くしなくては飲めなかった。

 ――コーヒーくらい飲めなくてどうするよ。

 政宗にからかわれつつ連れて行かれたのは、カフェだった。
 初めて行ったセルフ形式のカフェは、それはもう幸村にとってはメニューさえも難解だった。やっとの事でオーダーしたのは、スタンダードなカフェラテだった。

「ショートラテご注文のお客様」
「あ、はい!」

 呼ばれて幸村が手を差し出すと、カウンターの中の青年は――明るい髪色の人で、少し細身な印象だった――瞳をふわりと笑ませて、カップを差し出してきた。

「少し熱いので、お気をつけて」
「かたじけのうござるッ」
「苦いの苦手なら、お好みで蜂蜜とか、シュガーとか入れてみてくださいね。でもミルク結構甘いから、そのまま一度飲んでみてください」
「え…どうして」
「さっきレジで話していたみたいなので」

 遣り取りが聞こえていたのだと恥ずかしい気持ちだったが仕方ない。
ふわふわとしたミルクフォームに包まれたカップには、幸村にとっての未知の瞬間が待ち構えていた。
 口元に持っていくとミルクの甘い香りがした。ふわふわのフォームが舌に滑らかに滑り落ちていく。その時に飲んだカフェラテが其処からの幸村のカフェライフを決定付けてくれたようなものだった。

「ん…――」

 素肌に触れる布団の感触に肌寒さを感じて身を縮める。昔のことを夢に見ていたな、と瞼を落としたままで幸村は想った。そして再び布団に潜り込みながら、ふと其処が自分の家でないことに気付く。

 ――がりがりがり…。

 耳に先ほどから何かを砕くような音が響いてきていた。幸村はそっと瞼を押し上げてから、天井を見上げた。真っ白い天井が其処にはあって、それから視線を動かしてみるとローテーブルとテレビが目に入った。

「――…」

 足元の方にベランダがあるのだろう。其方から光が差し込んできているのが解った。

 ――佐助の家だ。

 ぼんやりとした思考が一気に現実に戻されてくる。先ほどまで見ていた過去の夢も一気に吹き飛んでしまう。だが直ぐに飛び起きるようなことは出来なかった。

 ――昨日、佐助と、佐助が…。

 ぐるぐると昨夜の記憶が蘇ってきてしまう。あられもない姿を彼に曝して、身も世もなく喘ぎ続けた。
 痛くて、熱くて、でも気持ちよくて――何度彼にしがみ付いたか知れない。それを思い起こすと顔から火を吹きそうな程恥ずかしくてならなくなってきた。

 ――どんな顔をして佐助に逢えば。

 ぐるぐると考えながら、もぞもぞと布団に頭まで潜り込んでしまう。だがそうしている間にも、幸村の鼻先を擽る香りがあった。

「――…ッ」

 ふわふわと漂ってくるのは、少しだけ甘い香りを含ませたような、木の実の濃いコーヒーの香りだ。
 これは確か、佐助の家に来る前のホールビーンストアで幸村が選んだコーヒー豆の香りだった。

 ――佐助が淹れてくれているのだろうな。

 直ぐにそんな事が頭に過ぎった。このベッドには今幸村しか居ない――確かに寝入り様には彼の腕に押し込められて、間近にある顔に何度もキスをしながら寝付いた筈だ。
 それなのに今は彼の姿はなく、幸村一人でこの布団の中にいる。幸村は掌をシーツの上に滑らせて、布団の中で「ふ」と息を吐いた。

 ――寂しいものだな、こんな時に側に居てくれぬとは。

 出来れば目覚めの時さえも彼の腕の中が良かったなどと、少しでも脳裏に思い描いてしまった自分に「なんて女々しい」と叱責してやりたい気持もあったが、それよりも昨夜の濃厚な経験が――ただの恋に身を焦がすだけの自分にさせてしまっているのだと気付いた。

「さすけ…」

 小さく布団の中で名前を呼ぶ。頭まですっぽりと被っている布団だ――少しの呟きなら彼は気付かないだろう。
 名前を呼ぶだけで胸元が締め付けられるくらいに熱くなる。それくらいに彼が愛しい。

 ――こんなに、佐助で一杯になるなんて。

 ぎゅ、と自分の肩を抱きながら想っていると、もう一度幸村は小さく「佐助」と彼の名前を呟いた。

「旦那ぁ、そろそろ起きない?」
「――…ッ」

 びく、と思わず身体が揺れた。たぶんコーヒーを淹れていて気付いていないだろうと想ったのに、彼の声は間近で聞こえた。
 どきどきと胸を高鳴らせつつ、幸村がそろりと布団から顔を出す。すると床に座って覗き込んで来ている佐助と目が合った。

「おはよう、旦那様」
「お…――よ、う…?」
「あちゃ、声、嗄れちゃったね」

 挨拶をしたつもりが上手く声が出なかった。すると佐助は困り顔になりながら、布団の上から幸村の腰を擦ってきた。

「ごめんね、無理させて」
「いや、そんな事はないが」

 かあ、と肌が熱くなる。布団越しになでられているとは言っても、佐助に触れられていると思うと昨夜の事を思い出しそうになってしまう。幸村が横になったままでいると、佐助は耳元に唇を寄せてきた。

「起きて。コーヒー淹れたんだ」
「佐助の、コーヒー…」

 ぴん、と幸村の耳にその言葉が刺さる。それでなくても、先ほどから鼻先をよい香りが擽っているのだ。それも佐助の淹れたコーヒーとなれば、飲みたくない筈はない。
 幸村がむくりと身体を起こすと同時に、佐助がカウンターからマグカップを持って来た。家でまで店のものを使っているのか、と渡されたカップのロゴをみて想う。だが両手に包み込むと、丁度良く馴染んだ感触にほっとしてしまう。

「朝一番は、一番大好きな…大切な人を想って淹れているから」
「――…」

 ベッドの上に座ったままの幸村にカップを渡し、佐助は自分のカップを手にして再び床に座り込んだ。幸村は口をつけずに、ふんふん、と香りを嗅いでから、じっと佐助を見つめてきた。
 まだ裸のままの幸村の上半身には、昨日の情欲の証がしっかりとあるが、それに気付いているのは今は佐助だけだ。後々気付いて騒ぐのだろうという予想は出来ていたが、佐助はそれには言及せずに幸村を窺った。

「旦那?」
「それは誰だ?」
「え…――っ、ちょっと」

 一瞬、真顔で問われてぞくりと背に嫌な汗をかきかけた。しかし幸村は眦を染めながら、答えを待っている――いや、答えを知っていながら、わざと佐助に言わせようとしているのだ。

「はっきりと、言ってくれ」
「やだなぁ、もう…幸村に決まってるでしょ」

 佐助は彼の小さな我が侭に付き合って、照れながら応えると、幸村は満足気に微笑んで口元にカップを引き寄せた。

「ふふ…嬉しいな」
「もう…ッ、この子ってば」

 こく、と幸村がコーヒーに口を付ける。同じように佐助も彼を見詰めたままでカップに口をつけた。

「美味しい…」
「良かった。愛情篭ってるからね」
「篭めて貰わねば困る」
「え…」

 幸村の言葉に瞳を見開くと、彼はそっぽを向いて二口目を口に運んでいた。それから自分の身体を見下ろして、佐助にカップを渡した。

「やっぱり、服くらい着なくては」
「そうだね、風邪引くし…これ着て…」

 佐助が用意していた服を差し出してみると、腰を浮かせかけた幸村がぴたりと止まった。絶句している幸村が「あ」と小さく呟いた。

「え…どうしたの、だん…」

 幸村の視線の先を同じように辿ってから、はたと気付く。幸村の視線の先はシーツで、その上に紅い痕が点々と落ちている。

 ――血…。

 ふと何処か怪我をしたのかと思ったが、佐助はハッと気付いた。そして真っ赤になっている幸村に納得してから、あらら、と苦笑していく。

「――…ッ!」
「やっぱり、切れちゃってたか」
「あ、う…うわ、ぁ」

 ずり、と自分の付けてしまった痕に真っ赤になりながら、幸村が掛け布団を引き寄せる。それを佐助は剥がそうとしつつ、彼の腰を引き寄せた。

「御免ね、旦那。薬用意するから…」
「破廉恥でござるぁ…」

 とん、と力なく佐助の胸元に幸村の額が押し付けられる。そのまま甘えるように、ぐりぐりと彼は額を押し付けてきた。

「旦那?」
「大丈夫だから…その、抱き締めてくれぬか」
「――うん」

 ぎゅう、と幸村を両腕の中に抱きとめる。すると幸村は顔を起こして、佐助の耳元に唇を近づけた。

「佐助、あのな…」
「なぁに?」

 佐助が耳を貸すと、幸村は優しく耳元に昨日言えなかった愛の言葉をくれた。そしてそれから小さな約束をひとつすると、再び腕を絡めあって唇を深く重ねていった。
 部屋の中にはずっと、甘さを含んだコーヒーの香りが立ち込めていた。










 幸村はいつものように紅いタンブラーを手に、大学の途中にあるカフェに寄る。そして店に足を踏み入れると佐助の姿を探した。佐助は色の薄い前髪をピンで器用に留めていた。

「おはよう、旦那。今日もドリップ?」
「ああ、勿論だ。お前のコーヒーは毎日飲むと決めたのだ」
「まったく…恋人の、って言ってくれていいのよ?」

 くすくすと佐助が笑うと、ぶわ、と幸村が真っ赤になる。彼の手からタンブラーを受け取ると、直ぐに淹れ立てのドリップコーヒーを注いだ。

「明日から新プロモ始まるんだよね」
「え…まことか!」
「旦那に合わせて、甘ったるいのだから」
「楽しみだな!」

 幸村が財布から小銭を出しているのをじっと見つつ、佐助は店内を見回した。そして人が少ないのを良いことに、ぐい、と幸村の胸元を引き寄せる。

 ――ちゅ。

「――…ッ!」
「いい加減、キスに慣れてね?」
「ばばばばばかものッ!」

 ぶわりと頬を真っ赤にした幸村は、手にしたタンブラーよりも真っ赤になっていった。大学に向う彼の背中を見詰めながら、佐助はひらひらと手を振っていく。そして外に出た幸村が、もう一度振り返ってガラス越しに「いってきます」と言ったのに応えるべく、すかさず佐助は携帯を取り出してメールを打っていった。






 一日の始まりにコーヒーを。そして一息いれる時や、恋人との時間にも。甘くて苦いコーヒーをいかがですか?




 了





110417 up /完結。ありがとうございました!