落とし文 ――若様、俺に教えてくださいませんか。 其れが佐助から弁丸に声をかけた、最初の出来事だった。 ばささ、と羽音を響かせて黒鳥が佐助の手元に降り立つ。咽喉元をなでてやりながら、佐助は鳥の足に括りつけられていた文に手を伸ばした。 中を開いて見ればそれは見覚えのある字が書き連なっている。こんな鳥に託す文ですら、整然としているところが彼らしい。いや、むしろ書を書いている彼は、普段とは違って静かに、静寂にあるようで、何処か別人のようにすら感じてしまうというものだ。 ――帰還せよ、か。少しは色めいた言葉でもあれば良いのに。 内容をさらりと確認してから、深く溜息をついた。佐助は撤退の準備を回りに指示し、腕を振る。それだけで理解できるのだから、忍の暗号は理解に容易い。しかし文字となると、証拠を残してしまうので厄介だ。 ――あれ? ふと脳裏に掠めた映像に足を止める。同じようなことを誰かに昔言った様な気がしてならない。あれは何の折だったか、と思い出しながら、佐助は傾きかけた月を見上げていった。 幼い時から弁丸は良く書けたと言われた手習いを佐助に見せてくれた。 庭掃除をする佐助の横で、屋敷の中では弁丸が背筋を伸ばして筆を手にしている。さ、さ、と掃く庭には然程木の葉が落ちているという訳でもない。 「よし…出来たぞ」 「それじゃあ、お茶にでもしますか」 ふう、と息をついて弁丸が声を上げる。もうそろそろ元服をしてもいいのではと思うが、彼は中々元服させてもらえず、まだ幼名のままだった。しかしそれでも弁丸は十歳に満たない 佐助が箒を手に厨に向おうとすると、ぴらり、と目の前に紙が掲げられる。 「何?」 「どうだ?中々良い出来であろう?」 「――…」 弁丸は喜色満面と言った風情だ。しかし佐助には目の前に差し出されたものが文字なのか、模様なのか、それすら判別できぬほどだった。どう応えたものかと思案していると、彼は縁側から不思議そうに小首を傾げて覗き込んできた。 「佐助?」 「ごめん、若。俺様、字、読めないんだ」 「え…」 す、と両手に紙を乗せて彼に戻す。正直に白状してしまう方が潔い。佐助は困ったように後頭部を掻きながら、俯いて、弁丸に告げていく。 「見せてもらっても、大体は解るけど…其処まで流麗に書かれると読めないな」 「そう…なのか?」 弁丸はそれでも小首を傾げて、己の書いたものを見下ろした。弁丸にしてみたら、何の変哲も無いただの書状だ。それも兄に向けた、他愛ない手紙でしかない。 「簡単な読み書きしか出来ないからさ。忍なんてそんなものだよ」 「でも暗号などは…」 「あれは簡単。染み付いてるからね」 忍文字や目印、暗号の類ならば間違えることも無い。それに気付いた時には側にあったものだ。馴染むのも早いし、理解も早い。 だが弁丸は佐助の話を聞いてから、口元に手を宛がって「これからの任務となれば」と思案顔になった。 「しかし斯様ならば難儀することもあろう?」 「うん。だからさ…」 佐助が腰を屈めて頭を下げた。 「若様、俺に教えてくださいませんか」 縁側から佐助を見下ろした弁丸は、頷きかけてから、右側に小首を傾げてみせた。 「うん?」 「どうかした?」 「そういえば、俺がまだ幼い時も同じようなことが…」 「覚えてたんだ?」 くすくす、と笑いながら佐助が言うと、弁丸は佐助を縁側の上に招きいれながら、その時の話を聞いていった。 そして手習いを佐助に教えてくれた弁丸は「最初は書き写すだけでいい」とある手本を書いて見せて、佐助に何度か書かせてきた。その時の手習いは、何度言っても佐助にくれなかった。 その後、意味を探りながら教えてもらい、今では読み書きに不自由は全くなくなった。 佐助は屋敷を目の前にして、あの時の手習いの手本が気になっていた。 戻ったら幸村に問いただしてみようとすら思う――何故なら、今の佐助の記憶にあるそれは、どう見ても恋の歌だったように感じるからだ。 ――それを俺様に書かせて、しかも、それをくれないなんて…なんか可愛いことしてくれるよねぇ。 佐助は口の中でくぐもった笑いを零すと、ひらり、と空から屋敷の中に身体を躍らせた。 ――かた。 小さな音を立てて、そっと屋敷の中の、彼の部屋に降り立つ。すると今の今まで、ほのかな明かりで書物を読んでいた幸村が顔を上げた。 「おお、佐助か。どれ、よく顔を…」 「旦那…」 ぱっと明るい顔になった幸村の側に、滑り込ませるようにして身体を近づけ、さらりと自分の膝の上に彼を乗せた。 「お前、急にどうし…」 驚いた幸村の言葉を奪うようにして、彼の背に腕を伸ばして引き寄せる。そのまま唇を寄せて、鼻先に触れ、口角に触れ、そして重ねる。 触れるだけの口付けに、とん、と幸村が佐助の胸を突いた。 小さなおねだりが可愛くて、そのまま深く口を開いて唇を吸い上げる。 「佐助…どうしたのだ?」 「うん?ちょっとね…」 唇を離してから、ぎゅ、と強く抱き締める。そして佐助が彼の耳元に「聞いていい?」と例の手習いの話を引っ張り出した。 「あれ、俺様に返してくれない?」 「な…そのようなもの、当に捨てて…」 「嘘でしょ?俺様知ってるんだから。懐紙に隠して、いつも持ち歩いているくせに」 「知ってて…」 前に一度、菓子を取り分けようとして、懐紙の中にそれが混じっていたのを佐助は見逃していなかった。肌身離さず、まるで御守のようにして持つそれが何なのか――それくらい、彼の口から聞きたいものだ。 佐助が幸村の額や、頬に口付けながら何度も「教えて」と言うと、幸村は「笑うなよ」と徐々に肌を染めながらも、佐助にしがみ付いてきた。 「お前は、俺に恋文などくれぬと思ったから」 「だから恋の歌写させたわけ?」 「それに忍は証拠は残さぬというから…」 だから大事に取っていたという。佐助はくすくすと咽喉の奥で笑うと「今はもう必要ないでしょ?」ときいた。しかし幸村は首を振る。 「新しい恋文をくれるのなら、これは破棄しても良いが」 「じゃあ、今度じっくり送らせてもらいます。だからさ、旦那、今日はもっと抱かせて?」 「う…――っ、致し方あるまい」 照れながらもしがみ付いて来る幸村を抱きしめ、佐助はそのまま床の上に彼をゆっくりと押し倒していった。 木の葉に隠す落とし文――懐に隠して隠して大事に暖めてきたのは、互いの恋心でした。 了 110526 up 5月23日が恋文の日とのことから。 落とし文は虫が木の葉に卵を産みつけて、くるりと巻いている姿が文のようだから、というのが本当のものだったかと。和菓子でも、この名前のものがありますね。響きが気に入って。 |