おかえりなさいだんなさま2



 いつものように残業を終えて通勤片道一時間の行程を過ぎてから、自宅のドアを開けたら目の前に執事がいた。

「おかえりなさいませ」
「――――…」

 開けたばかりのドアを再び、バタン、と閉め直す。そして幸村は今観たものを脳裏から払拭しようとした。そして今一度ドアを開けると、やはり其処には見紛う事なき執事が居た。

「おかえりなさいませ、旦那様。お勤めご苦労様でございます」
「佐助…」
「旦那様のお帰りに合わせまして、食事と入浴の準備を致しておりますが、どちらを先になさいますか?」

 にこりと微笑む佐助は幸村の同居人だ。それもただの同居人という訳ではない。黒いスーツに白い手袋、撫で付けるようにしてセットされた髪――その容貌で微笑まれて、幸村は思わず胸が鳴ってしまった。

 ――かっこいい。

 思い起こせば一緒に暮すようになった切っ掛けは友人の結婚式に参列した際だった。その時も佐助は今のように着飾っていた。
 花嫁の放り投げたブーケは、未婚の女性達の合間を潜り抜け、ぽん、と幸村の手元に収まった。その場では居心地の悪い気分にもなったが、そのブーケから花を取り出して、結婚式の帰り道に佐助は「一緒にいたい」と告白してきた。

 ――思い出してしまうな。

 今思えばあればプロポーズのようだったと感じてしまう。思案にふけって玄関口でじっと靴の先を見つめていると、す、と影が降りてきた。

「旦那様?如何なさいましたか。お加減でも?」
「ああ、いいや。ただいま」
「おかえりなさいませ、旦那様」

 うやうやしく頭を垂れる佐助に、幸村はハッと我に返る。思わず物思いに耽ってしまったが、よくよく考えると今のこの状況をどうにか説明してもらいたい。

「佐助…つかぬ事を聴くが」
「はい、何でございましょう?」

 佐助は再び、蕩けるような笑顔を向けてくる。その顔に胸がなるのは致し方ない。幸村は構わずに佐助に話しかける。その合間にも着ていたコートを背後からするりと脱がされていた。

「一体何故そのような格好をしておる」
「夏にメイドになりましたので、次は執事にと。簡単なことでございます」
「お前…いい加減その口調を止めろ」

 ふう、と深く嘆息すると幸村はしゅるりとネクタイを外した。佐助に背中を見せて振り向かずにいると、ぬう、と背後から腕が伸びてくる。

「旦那、お帰り。で、ごはん?お風呂?」
「…ん、先に風呂に入ってくる」

 ――外回りで汗を掻いた。

 背後から抱き締めてくる佐助は、幸村の耳朶に囁きかけてくる。彼の声はベルベットのように滑らかで、するりと耳朶に染み込んでしまう。佐助の声が好きだと思いながら告げると、彼は背後から廻した腕をそのまま幸村の胸元に触れさせた。

 ――ぷち、ぷち。

「佐助、ボタンくらい自分で…」
「お手伝いしましょう、旦那様」
「…執事ごっこはもう良いだろ?」
「まだでございますよ」

 ふふ、と背後から笑いかけてくる佐助の口調が戻る。彼に促がされるままに風呂場に行くと、あっという間に全裸にさせられてしまった。
 幸村は観念してタオルを手に風呂場の中に入る。
 すると佐助が、ばさ、とスーツを脱いだ音がして振り返った。みれば佐助はシャツの袖を器用に、くるくると捲し上げていた。

「…一緒に入る気か?」
「お背中お流し致しましょう」
「いらぬッ!」
「そんな事言わずに。ね?」
「いらぬったら、いらぬッ!」

 幸村は些か不機嫌になりつつ、バスルームへのドアを開けた。背中に触れる自分の髪がさらさらとしている。その先を、つん、と引っ張られて振り返ると、彼は有無を言わさずに中に入ってきた。
 佐助の目の前で簡単に身体を流してから湯船に浸かる。すると彼は湯船の縁に腰を下ろして、肩まで湯に浸かった幸村の頭を撫でた。

「御髪を」
「うん?」
「旦那様の御髪、洗いますので頭を此方へ」
「今度は美容師ごっこか?」
「やだなぁ、それもこの前やったし」
「どうせまたネタ作りだろ?」

 ふん、と鼻を鳴らして唇を尖らせる。だが佐助に誘導されるままに頭を湯船の外に出して仰のく。すると佐助は嬉しそうにシャワーヘッドを手にして幸村の髪を洗い出した。

 ――しゅわしゅわ。

 耳元に聞える泡の音に、視線を上げて彼を見上げる。髪を切りにいくと、顔にガーゼを乗せられて洗ってくれる人を見ることはない。しかしこうして佐助に洗われていると、彼の顔がよくみることが出来る。

「佐助」
「何でございましょう?」
「何を考えておる?」
「え?」
「髪を洗うとき、何を」
「ああ…旦那様の生え際が綺麗だな、とか。長い睫毛が好きだな、とか。あと仰のく瞬間の咽喉仏が色っぽいとか…」
「…もういい」
「そう?」

 くすくすと笑いながら洗ってくれる佐助に、はあ、と溜息をついた。すると佐助は濡れた手でそっと幸村の頭を抱えると、上から覆いかぶさるようにして口付けてきた。

「おい…」

 少し唇が離れた瞬間に声をかける。すると佐助は小さく、なに、と聞いてくる。ほわほわと湯気が昇っていくのを見上げながら、鼓動までがほわほわと上り詰めていくような気がした。

「佐助、どうせならお前も脱いで入れ」
「それだけはご容赦くださいませ」
「執事ごっこはもういいから」

 粗方髪を洗われてから、向き合うように身体を動かす。ちゃぷん、と湯が跳ねて身体は温まるのに、何故か冷えていくような気配を感じた。
 目の前の佐助が、ふう、と溜息をついて眉を下げる。直ぐにでも逃げを打つように腰を上げないことを確認して、幸村はじっと彼を見つめ続けた。

「旦那、俺様、肌を誰かに見せるの嫌いだって知っているでしょ」
「知っておるが、俺とお前の…その、肌を合わせる関係なのであればこそ」
「それでもごめん。抱き合うのと違ってお風呂場は色々見えちゃうし」

 困ったように言う佐助に、幸村はムッと頬を膨らませた。佐助とこうして暮して、恋人として過ごす中で勿論肌も何度も合わせた。でも気付けば幸村は一度も彼の背中を見たことがなかった。いつも巧妙に隠され、みることが叶わない。しかし、抱き締めると手に触れる肌は――ケロイド化しているのか、所々肉が浮き上がっているのが解った。
 何が彼にあったのかは聞いていない。
 だけどいつかは話してくれるだろうと、ずっと待ってきた。それでも、もうそろそろ曝け出してくれても良いのではないかと思ってしまう。

「お前、俺に背中を見せまいとしているだろう?」
「まぁね…みても面白いもんでもないし。気持ち悪いだけだよ」

 ――傷跡なんて。

 湯船に浸かっているせいで肌が熱い。汗がじっとりと浮かんでくるのを感じながら、幸村は両手を伸ばして、ぐしゃぐしゃと佐助の頭をかき回した。

「わわわ、旦那ッ!」
「俺とて…ッ!佐助の全てを知りたいと思うッ。知って、判断するのは俺だ。だから…」

 ばしゃばしゃと湯船の湯が跳ねる。佐助の方にも湯が跳ねて彼のシャツを濡らした。濡れたシャツ越しに透ける肌色に、幸村がしがみ付くようにして腕をのばした。伸び上がってきた裸の身体を抱きとめながら、ゆっくりと佐助は幸村の背を撫で下ろす。

「あ…ッ」

 つう、と撫で下ろされた掌が、腰の窪みに触れる。その瞬間、小さく声が出てしまい、ぎゅっと彼にしがみ付いた。すると佐助は何度も其処を指先で往復させてくる。

 ――いつもこんな風に流される。

 幸村が、背に競りあがってくる戦慄に耐えていると、ふう、と耳朶に囁かれた。

「旦那と出会う前の俺なんて…思い出させないで」
「佐助…」
「大好きな旦那様。ねぇ、少しでいいから、俺に隠し事を赦してね」

 顔を起こした佐助と瞳がぶつかる。彼の瞳を見入ってしまっては後がない。幸村は言葉を飲み込んで、彼の唇に自分の唇を触れさせていった。










「腹が減った…」
「そりゃそうでしょうよ。お風呂で運動したんだから」
「言うなぁぁぁぁ」

 ぐったりとしながらリビングの椅子に座っていると、ドライヤーを持った手を止めて佐助が言う。彼の方もまだ髪から水滴を垂らしているが、既に執事の格好は止めたらしい。

「佐助、何で今日は急に執事だったのだ?」
「うん?だって旦那最近、すごくお疲れみたいだったから」
「え…」

 佐助はドライヤーを片付けて戻ってくる。そして目の前にカップを持ってきて、幸村に持たせた。中には何も入っておらず、ただ持って待っていると、ティーポットを持って戻ってくる。

 ――こぽぽぽ。

 手に持ったカップの中に紅茶が注がれていく。コーヒーとは違う、鼻に触れる優しい香りに、幸村はホッと肩の力を抜いた。

「労おうかなぁって思って。おもてなしするには調度いいかなって思ったんだけど」
「そうか…俺はあいも変わらず小説のためかと」

 つい、と淹れ立ての紅茶に口をつけていると、佐助があさっての方向を見上げる。

「あ…」
「それもあるのか」

 じっとりと下から睨むように告げると、佐助は慌てたようにして踵を返す。といっても、台所はオープンカウンターだ――顔を合わせることには変わりない。

「まぁ、うん。そうだね。さてご飯冷めちゃったから暖めなおそうかなぁ」

 とととと駆け込むようにして佐助が台所へと向う。その背中をじっと見つめながら紅茶に口をつけつつ、幸村は彼に呼びかけた。

「佐助」
「なぁに?」

 佐助が振り返る。振り返った彼に向って、幸村は満面の笑みで告げた。

「好きだ」
「――…ッ」

 切れ長の佐助の瞳が大きく見開かれる。それと同時に彼の眦が、ほんのりと色付いた。幸村は佐助の変化を見詰めながらも、更に畳み掛けるようにきっぱりと告げる。

「好きだぞ、佐助。愛しておる」

 ぶわ、と彼には珍しく真っ赤になったかと思ったら、へなへなとその場に腰砕けになってしまった。そして顔を覆いながら、佐助は「恥ずかしい」と呟く。

「何を恥ずかしいものか。俺の真心、真意を述べたまで。何度でも言おう、佐助、愛して…」
「わー、ちょ…どどどうしたの?」

 全部言う前に佐助に遮られてしまう。幸村は座っていた椅子から立ち上がると、蹲っている佐助の背後に立った。そして彼の背中に自分の胸を押し付けるようにして、ぎゅう、と抱き締める。

「旦那…?」

 服越しでもかすかに彼の背には傷跡が解る。隆起した肌の感触に頬を寄せながら、幸村は蹲る佐助を抱き締めると、佐助の項に唇を寄せて強く吸い付いた。

「あ…旦那、痕、つけたでしょ?」
「これくらいは赦せ」
「うん…まー仕方ないか」

 背中に幸村を載せたまま、佐助が振り返る。そして「ご飯にしよう」と告げてくる。小さな照れと、独占と、そして秘密ごと。
 全て曝け出されてしまうことを待ち望むが、こうして少しの秘密がある方が上手くいくのかもしれない。

「腹が減って、背中とくっ付きそうだ」
「でしょ?今日は旦那の為にローストチキンを丸ごと焼いてみたんだよね」
「真か!それは…全て食べても?」
「全部は駄目だよ。ちゃんと取り分けてあげる」

 フローリングの床でころころと抱き締めあいながらそんな話をする。離れ難くなるのを推しとどめて、小さく唇を重ねると、佐助は立ち上がっていそいそと食事の準備をし始めた。幸村は彼を追ってカウンターに行く。

「直にクリスマスだな」
「そうだねぇ…そろそろサンタコス衣装でも用意しようかな」
「お前は何でも形から入るな…今年は某がサンタになろう」
「え?」

 サラダを冷蔵庫から出してきた佐助が、あからさまに鼻の下を延ばす。それを目に留めて、眉根を寄せて指摘した。

「破廉恥な想像したな?馬鹿者!」
「だってサンタって…え?」

 たぶん佐助の脳内にはあらぬ姿のサンタクロースの姿をした幸村がいるだろう。それを思うと鉄拳を食らわしたい気もしたが、幸村は頬杖をついて力強く言った。

「お前の欲しいものを言ってくれれば、上げないこともないぞ」
「え、だって…俺様の欲しいものって言ったら、もう貰ってるし」
「何かあるだろう?」
「…本当にいいの?」
「ああ、何でも言うが良いッ!」
「じゃあ、耳貸して」

 チキンを温めていた電子レンジが、ちん、と軽やかな音を立てる。それを聴きながら佐助が小声で告げた【欲しいもの】に、ただ幸村は嬉しくなって微笑むしか出来なくなっていった。





 了




101228/110222 up 2010冬コミ発行