初夏の出来事





 縁側で鍛錬に勤しむ幸村を眺めながら、佐助は足をぶらぶらと動かしていた。その間にも剣戟の冴え渡る音が響き続けている。
 まるで舞うかのように、はらりはらりとうねりを見せる幸村の髪の行方を見ていると、幼い頃の戦場での衝撃を思い出しそうになってしまった。

 ――もう数年前か。

 佐助がまだ忍隊の長になる前の、まだ幸村に仕え始めた時のことだ。鮮烈なまでの彼の姿に見惚れたことがある。

 ――なぁんか、あの時から旦那って変わってないような。

 ふとそんな風に思っていると、ぶん、と槍の空をさく音と共に、幸村が肩で息をしていた。見つめる先の背には、しっとりと汗が浮かんでいる。肩甲骨にそって着物が濡れ、まるで羽根のように彼の背を濡らしていた。

「旦那ぁ、休憩にしなよ。こう暑いと干からびちゃうよ?」
「…そうだな」

 ふ、と呼吸を落ち着かせた彼が振り返る。そして佐助の元に歩む最中に、ひょい、と上半身を肌蹴てみせた。

「――…ッ、ちょ、旦那ッ!しまって!」
「今更何を言うか」

 ――汗が気持ち悪い。

 幸村は眉を寄せながら近づいてくる。歩く動きに合わせて二の腕に筋肉の筋が浮かび上がり、その上にさらりと汗が光りこむ。

 ――目の毒だってのッ!

 どさ、と隣に座り込んだ幸村から、佐助は勢い良く目線を反らした。彼は構わずに首筋や胸元を手ぬぐいで拭っていく。

「佐助ぇ、着替えを…って、お前…」
「――はい」

 すす、と畳んだ着物を差し出す佐助は、幸村に背中を見せていた。幸村は半ば呆れながら嘆息した。

「お前、今更それは無かろう?」
「いや…あのね、余計に意識するようになってしまったというか」

 もぞもぞと佐助は歯切れ悪く応えた。
 自分よりも一回り以上も年上の彼と、想いあう関係になってから、数ヶ月――今までよりも幸村に反応してしまう自分に気付いていった。
 以前はなんでもなかった筈の彼の仕種などがやたらと眼を惹く。幸村の声が何処に居ても耳に響く。側にいたいと思ってしまう。そんなことの繰り返しで――しかもそれはいつも咄嗟に訪れるので、気が休まることもない。
 しかし幸村は佐助の胸の内などお構い無しに、ぶつぶつと言いながら、背後で着替えを始めていく。

「全く今更であろうが。いつから俺に仕えている?」
「かれこれ五年は過ぎているよね…」
「しかも俺の肌など、隅まで知っているくせに」
「ごもっともです…」

 膝を抱えながら、背後でばさばさと脱ぎ着する音を聞きながら、佐助は背を小さくした。

 ――普段は見れないところまで見ちゃってる自覚はあるんだけどさ。

 しかしそれと此れとは別だ。佐助は彼の着替えが終わるまでじっと膝を抱えて待った。その内、しゅ、と帯を締める音がして、肩の力を抜く。そろそろ振り返っても良いだろう。

 ――のし。

「――――ッ!」

 振り返ろうとした瞬間、背に重みを感じた。それと同時に温もりと、首筋に掛かる吐息に、びくりと身体を震わせてしまう。

「び…吃驚させないでよ、旦那ッ」
「いや…お前がつれないからつい…。そんな風に視線を反らされると、何やらこう…寂しいと言うか」
「は?」

 ぎゅ、と背後から抱きつきながら、幸村は肩に顎先を乗せてくる。そしてぴったりと身体を寄せてから、ちら、と横目で佐助を見つめた。

「――…」
「何?俺様の顔、何かついてる?」
「かわいいな、お前」
「え?」

 ぽつん、と幸村が呟く。そしてがっしと頭をつかまれたと思うと、今度は柔らかい感触が佐助の頬に触れてきた。

 ――すりすりすり。

「ぎゃあああああああ、ちょッ、あんた、正気?」
「正気も正気だッ!」

 激しい勢いで幸村が佐助の頬に、頬を摺り寄せる。逃げをうつ佐助を抱え込んで、幸村は思い切り佐助に擦り寄った。

 ――ざりッ。

 しかし顔の向きを変えた瞬間に、ざらりとした感触が触れてきた。佐助は尚も繰り返し頬すりをしてくる幸村を、思い切って掌で押し留めた。

「む…邪魔をするな、佐助ッ」
「そうじゃなくて、痛いってばッ!」
「ん?」

 ぐい、と幸村の顎を上に向かせると、顎下に硬い毛が生えていた。それを指先でさらりと触れてから、佐助は身体の向きを変えて、幸村の頭を反らさせた。

「ほら〜、やっぱり髭出てきてるじゃない」
「そういえば…最近手入れしてなかったな」
「見えるとこしかやらなかったんでしょ?もう…」

 嘆息しつつ正面から見つめると、幸村は手でその場所を確かめるように、すりすり、と擦っている。佐助はすっくと立ち上がると、よし、と気合を入れた。

「ちょっと其処に居てよ。道具取ってくるから」
「あ…ああ」

 佐助は先程までの焦りを含んだような表情とは一転して、きりりと言い放った。その変わり様に幸村はただ頷くだけだった。










 程なく戻ってきた佐助は縁側に座り、幸村を手招いた。そうして佐助の膝の上に頭をころんと載せると、幸村は横になった。

「坊さんみたいに、剃刀で剃れれば簡単なんだけどね」
「そうも言っていられぬだろう?」
「でも面倒だと時々苦無でやっちゃうけどね」

 幸村の頭を膝に乗せたままで、佐助は毛抜きを動かした。
 剃刀は高価なものになるので、専ら毛抜きが主流だ。だがそれも手入れに不向きとの事で、佐助は勝手に苦無を使用したりもする。
 だがこの時代では毛抜きが一般的だ。一本一本、引っこ抜くくらいしかない。

「じゃ、始めますよ」
「うむ、頼む」

 つい、と幸村の顎先に手を添えると、佐助は静かに毛抜きを動かしていった。
 幾らか抜き取っていくと、瞼を下ろした幸村が時々、びくん、と身体を揺らしていく。毛の流れに沿って抜いていけば、痛みもそれ程には無いが、顎の下だ――逆に生えているものもあるので、どうしても痛みを与えてしまうようだった。

 ――でも、声出さないんだよね。

 つ、と抜き取る瞬間に、ぴく、と瞼が動く。そして詰めた声が漏れる。それでも幸村は批難を向けることもなく、耐えていく。

 ――ぴっ。

「――ッ」

 また太目の一本を抜き取ると、幸村の身体が、びくっ、と揺れた。徐々に眉根が寄せられ、痛みに耐えているのが解る。少しだけ焦りからか頬が赤くなってくる。

 ――あ、なんか此れって、前戯の時の反応に近いな。

 佐助はもくもくと彼の髭を抜き取りながら、そんな風に思った。そっと頬に手を添えると、幸村は反射的に瞳を押し上げた。

「あ…――っ」
「痛い?旦那、大丈夫?」
「だ…大丈夫だ、これしき…」

 言う声がかすれている。掠れた声が佐助の耳に届くと、ぞくん、と背筋に戦慄が走った。佐助は徐々に高まってくる鼓動を、何とか押し留めようと幸村を見下ろしたまま、こく、と咽喉を動かした。

 ――ぴんっ。

「――…ッ」

 佐助は無言で――予告も無しに、いきなり一本引っこ抜いた。すると、今度はじわりと瞳に涙を浮べて、幸村が見上げてきた。

「痛い…の?」
「だ…大丈夫だッ」

 ぐす、と少しだけ涙ぐんだせいで、鼻を啜る幸村から視線を外せなくなっていく。徐々に、押さえようとしても背筋からぞくぞくとした感覚が迫り来る。

 ――っ、は…――ッ、さ、すけ…

 脳裏につい先日の閨での幸村が浮かんできた。痛みに耐えながら、声を震わせて、しきりに佐助の名前を呼んできた。

 ――なんか似ているな。

 こんな日常の瞬間が、あの甘ったるくて熱い感覚と似ていると思うと不思議だ。反らしていく咽喉仏とか、頤とか、佐助を誘う要素はいくらでもある。佐助が自分の回想と、目の前の幸村とを照らし合わせているのには、まったく彼は気付かない。
 ぴん、ぴん、と毛抜きで髭を抜かれている間に、ぶるぶると震えていくだけだ。

「はい…旦那、出来たよ」
「おお、これで終わりか…」

 最後の一本を、ぴん、と跳ね取ると、身体に力を入れていた幸村が、ふう、と溜息をついた。細やかな痛みから解放されるという安堵だったのだろう。
 そのまま、のっしりと佐助の膝に頭を乗せて、瞳を見開いた。

「――さ、すけ?」
「旦那って、えろいね」

 はふ、と小さな息を付きながら、佐助が見下ろしてくる。だが見下ろしてくる佐助の目の色が変わっている。は、は、と小さな息を切らしている姿を見上げて幸村はただ瞬きを繰り返すだけだった。

「佐助、どうかし…」

 ――ごり。

 頭を少しだけ上向けた瞬間、幸村の動きが止まった。今彼は細かい吐息を弾ませている。幸村は自分の頭に触れたものに気付いて、ひく、と口元を引き攣らせた。

「おい、この頭に当たる硬いのは…」
「んー…正直で困るよね」
「破廉恥だぞ」
「そんなこと言われてもさぁ、反応しちゃったんだもん」
「この破廉恥忍ッ!何もしないからなッ」
「ええ?誘っておいて、それ?」
「人のせいにするな、馬鹿者」

 後頭部に当たる感触に、幸村がどうしたものかと逡巡しながら反論する中、佐助は手を差し込んで幸村の頭を持ち上げた。

「だって、俺を誘う旦那が悪い」
「誘ってなど…」

 髭を全てきれいに取り除いた顎先を、つい、と撫でる。そして佐助は彼の頭を両手で支えると、上から覗き込んだ。

「旦那の全部が、俺にとっては誘っているようにしか見えないんだもん」

 そしてそのまま、悪戯っ子のように、に、と口の端を吊り上げて嗤うと、幸村は諦めたように嘆息するだけだった。











100429 up
柴乃さんに捧げる髭ネタその2.その1は後ほど。昔は月代さえも毛抜きで抜いていたんですって。痛そうです…