Sleeping Beauty? 長期任務を終えて佐助が還り付いたのは、まだ朝日の昇る頃合だった。 真田幸村に仕えてもう直ぐ一年と云う頃の初夏の朝だ。幸村が朝餉に口をつけているのを、じっと外から覗う。鼻先にふわりと味噌汁の香りがしており、佐助の腹の虫も鳴りそうだった。 ――飯、食い終わってからの方が良いよね。 そう思いつくと、くるりと踵を返す。任務から戻ったばかりで薄汚れている自身を見下ろして、ついでに身体も清めてからにしようと思いつく。佐助は徹夜の眼を擦りながら、ふああ、と大きな欠伸をしてから、忍屋敷へと向っていった。 「――――…」 幸村が書物を読み終えて背を伸ばすと、立ち上がって障子を開け放った。そして縁側にある小さな塊に思わず足を止めてしまう。 幸村が近づいて行っても気付かないその塊は、見知った少年だった。 茜色の髪をして、縁側にくの字に身体を横たえて、すうすう、と穏やかな寝息を立てている。 ――いつ、戻ったのだ? 足元に蹲る塊に幸村は狼狽してしまう。今回の任務は長期で、その安否を気遣わない日は無かった。戻ってきたら大いに労ってやろうと、あれこれ考えていたのに、当の本人は報告すらせずにこの場――幸村の部屋の前で、丸くなって寝ている。 確かに空を見上げてみれば、少々暑いような、ぽかぽかとした陽気が照り付けている。眠くなるのは仕方ないのだろう。 幸村は辺りをきょろきょろと覗った。そして誰の気配もないことに気付くと、再び足元の塊に向って屈みこんだ。 「佐助、佐助…起きぬか」 「――――…」 いつもならば少しの物音でも飛び起きる彼は、今はすうすうとただ寝息を立てるだけだ。何度声をかけても佐助は目を覚まさない。 ――疲れておるのだろうな…。 だがこのままでは風邪を引きかねない。そう思いながら、幸村はその場に腰掛けた。そして足を縁側に投げ出すと、尻でずずいと横に滑り寄る。 ――すい。 軽く手を佐助に向けて、そっと耳元を撫でた。だが佐助は未だに起きる気配もない。 ――ふ…こんな処、海野に見つかったら怒られような。 それは多分佐助も自分もだ。だが幸村は構わず、そっと佐助の頭に手を差し入れると、自分の膝の上に乗せた。そして猫でも撫でるように、ゆるゆる、と彼を撫でていく。それは将に幼子をあやすようなものだ。 ――おお、隈がこんなにもくっきりと…さぞ、眠れない日々を送ったのであろう。 長い睫毛の影よりも濃い、隈の縁取りが佐助の目元にできている。こんな少年の身に過酷な任務を言い渡さなければならない己の非道さに、少々ばかり心が痛む。 だが幼いことを理由に任務から外せば、佐助は烈火の如くに怒り狂う。さらに言えば、今の佐助の実力は他の比ではなかった。どうしても欠かせない位置に彼は来ているのだ。 ――すまぬ…な。佐助。 心の中でそう嘯きながら、幸村は細い佐助の肩に手を添えて、自分の羽織を払った。ふわりと腰の辺りに羽織をかけてやり、ふと変化に気付く。 「うん…――?」 腕を伸ばして羽織をかけたが、いつもよりも余計に腕を伸ばしたような気がした。そして幸村は再び、佐助のくの字に曲がった身体に向って腕を伸ばしてみた。 「少し…丈が伸びたか?」 ――それに、少しだが…体つきも大きくなったような? ひょろりとしていた腕も足も、しっかりとした逞しさを其処に宿し始めている。幸村は興味を引かれるままに、する、と佐助の肌に触れてみた。 滑らかな肌触りは変わらない。だが確実に彼の身体つきが少年のそれとは変わり始めている。 ――どきん。 佐助の身体の変化に気付くと、急に胸が高鳴り出した。普段は意識していない――いや、意識することを控えている感情が押し寄せそうになる。 「――……ッ」 「う…――っ、ん」 そうこうしている内に、急にぐっと身体を縮める佐助が声をたてた。幸村は咄嗟に口元を手で覆って、噴出しそうになる汗を押し留めた。 だが佐助は起きることなく――それどころか、身体の向きを変えて幸村の腰にしがみ付いてきた。 ――何とも愛らしい。どうしてくれようか。 膝から腹にかけて佐助の小さな温もりが幸村の理性を吹っ飛ばそうとしてくれる。幸村はそろそろと手を動かして彼の頬に、指を曲げて触れた。そして再び背を伸ばすと、辺りを見回した。 ――早う、大きくなっておくれ。 この腕で自分を抱き締められるくらいに。 愛しくて堪らないこの少年に、そんな気持ちを告げるわけには行かない。あどけなく、ただ少年としての時を過ごすことを削がれ、忍として生きている彼に、これ以上負担をかけてはいけない。だが、自分の感情を抑えるのが大変な時もある。 ――戯れならば、触れられるものを。 この小さな少年に触れたい。触れられたい。そんな風に思うようになった自分に、どうかしているとしか考えられなかった。だがそれも、彼に全くその気がないのを解っているから、知らない振りが出来るというものだ。 膝の上で佐助は気持ち良さそうに、頬を桜色に染めている。そして、すうすう、と寝息を立てている。その安らかな寝顔を護りたいと思ってしまう。 ――こうしていれば、ただの童なんだがな。 思わず苦笑したくなった。見下ろす佐助の顔はあどけない。長い睫毛が頬に影をつくり、頬は桜色、薄い唇は下唇だけが少しだけ膨らんでいて、触るとぷにぷにしている。だが幼さの中に何故か艶もあるような表情をするから不思議だ。 膝に乗る彼を撫でながら、不意に幸村は天井を見上げた。天井の先から、木漏れ日が入り込んできている。すう、と新緑の香りを吸い込むと、幸村もまた瞼を閉じた。 そして再び瞼を押し上げてから、そっと手で佐助の頬を支える。 「――――…」 少しだけ上に向けられた佐助の顔は、気持ち良さそうに寝入る子どものそれだ。彼は薄く唇を開いていた。 ――少しくらいなら。 きゅう、と胸を締め付けられそうになりながら、幸村は自分の背を丸めた。そしてそっと佐助の顔に自身の顔を近づけていく。 「幸村様、何やってんすか」 「――――…ッ!」 びっくう、と身体を揺らして起こすと、背後の部屋の仕切りに手を添えて、海野六郎が呆れ顔で此方を見ていた。 観られたという衝撃に、背が熱を帯びたように熱くなる。今にも火を吹きそうになって、あわあわ、と口元を動かしていると、海野はそのまま近づいてきて横でしゃがみ込んだ。 「才蔵が、いつまで経っても佐助が戻ってこねぇっていうから、来てみれば…」 「う…――ぁ、あ、あああああのなッ、海野ッ!」 「こーんなところで午睡しやがっている童っぱと…ねぇ?」 にやにやとしながら海野は此方を見ていた。幸村が一先ず呼吸を整えて「誰にも言うな」とだけ言うと、海野は余計に楽しげに口元を吊り上げた。 「言いませんよ、言えませんって」 「他言無用でござるッ!」 真っ赤になりながら幸村が迫る中、膝の上の佐助が「ううん」と唸った。そして、のそり、と身体を起こすと、ぼんやりと瞬きを繰り返していく。 「あれ〜?だんにゃ……?」 寝ぼけて呂律の廻らない口で、佐助が目の前の幸村を認識する。 ――あ…愛らしいのう。 寝ぼけているその姿に思わず胸がきゅんと鳴ってしまう。ハッと気付くと、海野もまたぽかんと口を開けていた。 だが次の瞬間には佐助も正気に返り、かあ、と顔を赤らめた。 「目が覚めたか、小僧」 「え…俺様、寝てた?って、この羽織…旦那の?え?」 明らかに混乱している佐助に、助け舟を出そうとした瞬間、海野の容赦ない拳が佐助の脳天に振り下ろされた。 ――ごっ! 「な…――海野ッ」 「さっさと報告してこい、馬鹿佐助!才蔵がお待ちかねだ」 「あ、そうだった!約束してたんだったッ」 打たれた頭を手で押さえながら佐助は顔を起し、幸村に報告していく。それを聞きながら、幸村は惜しいことをしたような気がしてならなかった。 その後、首根っこを海野につかまれた佐助を見送っていく中、ふと海野が意味深に微笑んで――口を、音も無く動かしていった。 ――苦労しますぜ? 彼の口を読みながら、それはもう当に解っていることだ、と幸村はただ自分に苦笑するだけだった。 麗らかな春先の陽光を感じながら、幸村は眩しそうに瞳を眇めた。すう、と吸い込むと新緑の香りが鼻を擽る。 さわさわ、とゆれる木の葉の音を聞きながら、縁側に座っていると、膝の上から小さな吐息が聞こえた。幸村はゆるゆると視線を自分の膝に向ける。 ――気持ち良さそうだな。 幸村の膝の上には、ぐっすりと眠ってしまっている佐助の頭が乗っている。指先で彼の目元に掛かる髪を撫で上げると、ぴく、と瞼が揺れた。 ――いかん、いかん、起してしまうか? 常ならば少しの変化でも目を覚ます彼に、ぴたりと指先を止める。だが幸村の危惧は空廻っただけで、彼は直ぐに穏やかな寝息を立て始めた。 そもそもどうして此処で膝枕をしているのかと言えば、夜通し――と言っても離れていた一週間の間――ずっと睡眠をとっていなかった佐助を見て、幸村が「休め」と言ったのが切っ掛けだった。 「そうも言ってらんないでしょ?」 「しかし…お前、酷い顔しているぞ」 「それは申し訳ねぇ限りで」 はは、と顎先に生えた無精髭を手で擦って佐助が笑う。 数年の片思いを実らせて、今や恋仲の相手が――そうでなくても――目の前でこんな風に疲弊している姿を見てしまえば、心配するのは当たり前だ。 幸村が片眉を寄せて不服そうにしていると、すい、と影が降りてくる。その影に気付いて顔を起すと、ふわり、と柔らかく唇を食まれた。 「――…お前、此処が縁側だと解ってるのか?」 「解ってるけど…駄目なもんで」 報告ならば部屋で聞くのが常だが、調度帰り着いたばかりの佐助と縁側で鉢合わせた。そのため、直ぐ部屋の前のこんな処で報告を聞いているわけであり、誰が通りかかっても可笑しくはない。 幸村が少々の狼狽を見せる中で、佐助は構わずに身体を寄せてきた。 「佐助…――?」 「はぁ…旦那だぁ。なんかアレだね、離れてると、すっごく触りたくなるね」 「馬鹿言っていないで休め、な?」 こと、と肩に顎先を乗せてくる佐助の背に腕を回して、言葉とは裏腹に誘う素振りをしてしまう。離れていて寂しかったのは佐助だけではない。 すると、ぐ、と力を込めて佐助が体重をかけてきた。勢いに任せて背後に倒れこむと、上から被さるようにして彼は唇を食み続けてくる。 「ね…まだ昼だけど…」 「したいんだろ?いいぞ」 「えッ!」 ふう、と溜息を吐きながら前髪を払っていると、驚いた表情で佐助が上体を起した。そしてその疲弊した顔に、血色を浮かばせていく。 ――おお、頬が薔薇色だ。 みるみる内に染まった佐助の頬に、幸村は少々驚きながらも、自分で足を動かして彼の身体を挟み込んだ。 「…褒美とでも思って、取らせてやろうか」 「旦那って…ホントに時々すごく大胆だよね」 ――此処どこか解ってる? 先程自分が言った言葉を、今度は彼が切り返してきた。そのことに少しだけ苦笑している間に、佐助の掌が肌に触れるのを感じた。 はあ、と力を抜いて佐助が胸元に身体を沈めてくる。そのまま何度か唇を合わせていくと、急に佐助が動かなくなった。 「――――…」 「佐助?」 ずっしりと重みを伴っている佐助の身体に腕を回してみる。しかし佐助からの反応はない。 ――まさか。 厭な予感に身体を起こしてみれば、既に寝息を立てている佐助がいた。幸村は苦笑しながら、そっと佐助の耳元に囁いた。 「忍の長が聞いて呆れるぞ?」 幸村は笑い出したい気持ちを抑えなが告げる。だが佐助は聴いている素振りもなく、すっかり寝てしまっている。 心地よい陽気と、幸村の体温で、すっかり緊張の糸が切れてしまったのだろう。だがそれだけ気持ちを赦されているのだと思うと、じんわりと幸村の胸に嬉しさが込み上げてきた。幸村はそっと身体を起こすと、佐助を膝に載せたまま、ぎゅ、と一度抱き締めてから、外の景色にゆっくりと視線を向けていった。 そして現在に至る。 膝の上に佐助の頭を乗せていると、寝やすいように彼は身体を動かして、幸村の腰に片腕を巻きつけてきた。足は軽く曲げられており、伸びやかな筋を見せている。幸村が自分の羽織をかけても、既にその羽織に収まるところは少ない。 ――大きゅうなった。 ふふ、と口元に微笑を刻んでしまう。数年前、同じように彼を膝に乗せた時には、叶う事もない願いだとさえ思った。だが今はこうして自分のものだと言える位置にいる。 ――髭など生やしてからに。 指先で彼の頬に触れる。いつもは滑らかになっている其処に、さり、と柔らかい髭がある。口付けの間にも触れてきて、何やらこそばゆかった。 茜色の髪も、切れ長の瞳を彩る睫毛の長さも、然程変わりないようにさえ思うのに、あの時の幼さはもうない。精悍な青年に成長している佐助に、ほ、と溜息をついてしまう。 ――こうして安らかに眠っている顔は、幼子と変わりないのだがな。 指先で悪戯に彼を突いてみる。ぷにぷにしていた唇は、今は少しだけ乾いていた。 ――荒れてるな…どれ。 薄く開いた唇に添えていた指を離し、上体を屈みこませる。そして舌先を彼の唇に這わせて、ぺろ、と舐めた。舌先にじっとりと鉄の味がしてくるようで、幸村は何度か舌先を動かしていく。 ――ぢゅ…。 強く吸い上げると、鈍い音がして、ぴく、と佐助の瞳が揺れた。だがまだ佐助は身震いしただけで、幸村によりしがみ付いて来るだけだ。 「まったく…愛らしいのぅ…」 「そう思うのは幸村様だけですよ」 不意に背後から声がかかる。首を廻らせると、呆れ顔の海野六郎が手に盆を持ったままで其処に立っていた。 「そう言うてくれるな」 ふふふ、と笑いこむと彼は大仰に溜息を漏らして、横に盆を置いた。そして佐助を上から見下ろしてから「ませた餓鬼ですよ」と舌打ちした。 幸村はゆるゆると佐助の頭を撫でながら、そっと茶に手を伸ばす。 「しかし昼日中から何やってんすか…全く、恥ずかしいったらない」 「何処から見ておった?」 六郎の当り散らすような素振りに聞くと、ほぼ全部、と溜息を付かれた。 「小助に茶菓子を頼んでたみたいなんですがね、佐助の野郎が。でも持っていったら、あんたと佐助が仲良く膝枕してるっつーて、大慌てですよ」 ――可哀相なのは小助でしょうや。 幸村は小助の慌てぶりを想像して「それはすまないことをした」と苦笑した。だがそんなに悪びれている風もない。 「幸村様…楽しんでらっしゃるでしょう?」 「解ってしまったか。此れは俺のものだからな、手を出すな、というちょっとした誇示よ」 ふふ、と笑う幸村はいとも簡単にそう告げる。すると六郎は再び覗き込んできた。 「こうしているとただの餓鬼なんすけどね」 「可愛らしいだろう?」 「あどけない顔して寝やがって」 けっ、と吐き捨てる彼が茶菓子の饅頭に手を伸ばすと、うううん、と身体を縮めてから、ぐんと伸びをして佐助が瞳を開けた。 「佐助?」 「――…」 幸村が覗き込むと、ぬう、と腕を伸ばして幸村の頭に添える。そして引き寄せられるままに幸村が顔を近づけると、ちゅう、と小さく音を立てて唇を重ねてきた。 隣で六郎が、ぽろ、と手から饅頭を取り落とす。幸村はそれを横目で見ながらも、佐助に「目が覚めたか」と訊ねていた。 「あ、俺…寝てた――って、え?」 「ようやく起きたようだな」 むくりと身体を起こして佐助は、ふあ、と欠伸をする。そして今頃気付いたとばかりに――固まっている海野に視線を向けてから、ひく、と口をひくつかせた。 「え?いつからいたの、海野」 「ずっと居たわ、あほたれ」 「は…ははは…――今の、観た?」 「観た」 即答する海野の胸倉を掴みこんで「誰にも言わないでよ」と佐助は詰め寄った。それを眺めながら幸村が、ぱくぱくと饅頭を口に入れていく。 「うむ、これはどこの饅頭だ?」 佐助が片手に苦無を持ちながら海野に凄んでいると、幸村は茶を啜りながら再び手を伸ばす。すると佐助はくるりと幸村の方へと向き直った。 「旦那、それお土産。ってか、あんまり食べ過ぎちゃ駄目だからねッ」 「そう言うな、美味い。お前も食え」 「え〜…寝起きだとねぇ…」 他愛ない会話を始める二人を交互に見ながら、海野は座りなおして、はああ、と深い溜息をついた。 「幸村様、前言撤回しますよ」 「うん?」 幸村の隣に腕を組みながら座る海野に、さっと佐助が茶を渡す。熱い茶を受け取りながら、六郎は意味深に笑った。 「苦労するのは幸村様じゃなくて、佐助の方ですね」 海野の言葉にきょとんとする彼を尻目に、幸村はただ楽しそうに微笑むだけだった。 三人の頭上で、さわさわ、と木の葉が揺れて、清清しい空気を辺りに振り撒いていった。 了 100419-100421/100423 up |