10.



 初めて目に飛び込んできたのは夕陽の色だった。



 紅蓮の鬼と呼ばれるまでに、獅子奮迅する幸村は、それまで真面目一辺倒といえばそうだった。というよりも、戦や学問以外の浮世にそれほど関心が無かったのも事実だった。
 身近のことは大抵自分で出来たし、わざわざ人の手を煩わせるつもりもなく、ましてや女子に関しても今は其れよりも大事があると、頭から相手にしていなかった。

 ――小姓の一人でも持て。

 そんな内容の書状を持って来た海野に、幸村は小首を傾げながら問うた。

「何故も皆、放っておいてくれぬのかの?」
「それは幸村様が、皆、お好きだからですよ」
「それとこれとは…」

 ばさばさと書状を纏めながら、近々一人忍を預かって欲しいという文面を目に留める。海野に忍が一人増えることを伝えると、彼は頷くことで了承する。真田忍隊のための忍邸に空きは十分にある。

「幸村様は真面目で良い武将なんですけどね、ちょっと残酷なんだよねぇ」
「何故だ?」

 読み終えた書状の束を海野に渡すと、彼は袖に両腕を突っ込んで腕を組んだ。調度、茶と茶菓子を持って忍隊の少年が部屋に現れたが、構わずに話を続けた。

「幸村様、貴方様は誰かを好いたことがありますか」
「俺は皆が好きだが…」

 茶を啜りながら、幸村が小首を傾げる。すると海野は困ったように眉をはの字に下げて、茶菓子の饅頭をぱくりと口に放り込んだ。

「そうではなくて、こう…胸が締め付けられるまでに、相手を独占したいほど、好いたことありますか?」

 もくもくと彼の口元が動くのを見つめながら、幸村は天井を仰ぐ。
 言われて見ると、そんな風に特定の誰かを好いたことなど、此処に来るまで一度も無かった。心揺さ振られるようなことは無かった。幸村はあっさりと首を元に戻して応えた。

「――…無いな」
「でしょう?好きな人が出来れば、貴方様も少しは変わりましょう」
「どういうことだ?」

 饅頭に幸村が手を伸ばすと、同じように二個目の饅頭を口に放り込んで海野が溜息をつく。ぱくりと口に饅頭を運ぶと、甘さがじっくりと舌先に乗り、仄かに幸村の表情が柔らかく解れる。それを指差して、年端も行かぬ童のような、と海野はからかってくれた。

「鬼から、人に、幸村様は変わりましょうよ」

 ――大義名分でなく、護りたいと思う人ができたらば。

 幸村はそう言われて一寸、手を止めた。だが今のこの状況を変えるつもりも、ましてや変わることも望んでいない。変わるのならばより一層強く――武人としての精進の果てに向うことくらいだ。

「放っておけ」

 幸村はそう吐き捨てると、ぱくん、と饅頭を口に運んで咀嚼していった。そんな仕種に海野がずっと含み笑いを繰り返しながら、幸村の相手とばかりに話に興じていった。
 だから、まさかそんなことが起こるとは思ってもいなかった。

「猿飛佐助と申します」

 初めに目に飛び込んできたのは、夕陽の色だった。なんとも綺麗な茜色だと――空が赤く染まる直前のような、燃え盛る太陽が残した残像のような、綺麗な色だと思った。
 そして起された顔に、綺麗な碧色の瞳が大きく、くりくりと動いていた。目尻にかけて、気の強そうにつんと釣りあがった大きな瞳が、じっと幸村に注がれている。

「う…うむ。よろしく頼む」
「は。あの、幸村様、とお呼びすれば宜しいのでしょうか」

 ぺこん、と小さな身体を折りたたんで佐助が低頭する。十も齢は過ぎていると聞いていたが、それにしては小さいような気がしてしまう。

 ――忍だから、という訳でもなさそうだが。

 ちんまりと座る姿に、ふと先日の書状のことを思い出す。忍を寄越すとあったが、あれは小姓も持たぬ自分への当てつけではなかったのだろうか。
 だがそれよりも小さな手は膝におかれ、すべらかな――まだ成長していない為に、すんなりとしている手が、微かに震えているようにも見えた。

 ――緊張、しておるのだろうか。

「佐助、近う」

 びく、と彼の肩が揺れた。その反応に「まさか」と脳裏で思い描くことがあった。そしてそれと共に笑いが口の中から込み上げてくる。
 呼ばれて佐助は膝を伸ばすと、幸村の前に進み出てきた。まだ距離のある場所に座ろうとするので、もっと近くに来い、と手招きをする。そして目の前まで来た佐助を見上げながら、同じように幸村はすっくと立ち上がった。

 ――ひょい。

「何だ、軽いのう。しっかり飯は食っておるのか?」
「た…食べてますッ」

 小さな佐助は幸村の腰の辺りまでしか背が無い。彼の両脇に手を差し込んでみると、ひょい、と持ち上げた。やすやすと持ち上がる小さな身体に、幸村の方が面食らってしまう。
 猫の子でも抱え上げるかのように、ぷらん、と身体の力を抜く佐助を持ち上げたまま、幸村はにこにこと微笑みながら諭した。

「もっと大きくなるには、しっかり喰わねばならん。忍として、我が忍隊の一員として働いて貰うにはな」
「あ…俺、ちゃんと忍として働いていいんですよね?」
「何だ、やはり余計なことを吹き込まれたか?」
「――…っ」

 ぐ、と言葉を詰まらせて佐助が口を閉ざす。それに合わせて、かあ、と鼻の辺りを紅色に染めていった。綺麗だと思った碧色の瞳が、くるりと光を弾いていく。その大きな瞳を覗き込みながら、幸村はにやりと口もとを吊り上げて見せた。

「大方、忍としてだけでなく閨事の役目でも仰せつかっておるのだろう。しかし心配するな。俺はお前を忍として、この邸に迎えたのだ」

 よいしょ、と佐助の腰に片手を動かして、抱っこの体勢を取る。だが持ち上げすぎて、佐助の腰は幸村の肩に乗りかかるようになってしまう。
 こんな風に目上の、しかも主を見下ろす羽目になるとは思っていなかったであろう佐助は、困ったように眉をゆがめた。

「幸村様…」
「これから、宜しく頼む」

 小さな佐助を抱き上げながら、夕陽の色の髪と、碧色を見上げる。幸村がじっと彼を見上げていると、佐助はこくりと齢相応の幼い顔で頷いた。そしてもぞもぞと細い腕を動かしていった。

「あの…ぅ、手を」
「あ、ああ…これは済まぬ。あまりに小さいのでな」

 すとん、と畳の上に佐助を下ろすと、かっとムキになって佐助が振り仰ぐ。つんと尖らせた唇が、気の強さを物語っていた。

「俺、直ぐに大きくなりますよッ」

 ――幸村様なんて直ぐに、追い越してみせるからね!

 小さく薄い胸を張って、佐助は豪語した。
 ふくふくと下に桃色を伴っている――桃のような肌をした頬を膨らませて胸を張る佐助は、何処から見ても愛らしく幸村の瞳には映った。

「楽しみにしていよう」

 ――だが、この小さな童くらい、護ってやりたい。

 忍としての生き様を知っている――その中で、彼がこれまでどんな鍛錬を積んだかも、おおよそ知っていた。だが目の前にいるのは「忍」ではなく、幸村の目には「少年」としてしか映らない。

 ――そこらの童と何ら変わりないというのに。

 この小さな手で、身体で、どれ程の修羅を歩んできたのだろうか。そう思うと、目の前の少年を抱き締めて、護りたいとさえ思ってしまう。
 ふわ、と幸村の中にそんな感情が渦巻き始める。だがそれには関係なく、目の前の小さな忍は胸を張って唇を尖らせ続けていた。

「あと、幸村様の身の回りの世話、俺様がするからね!」
「そうか、そうか。頼むぞ」
「俺様、有能なんだからねッ!絶対に役に立つんだからッ」
「ああ、解った解った。期待しておるぞ」

 ふふふ、と笑いながら佐助の頭をぐしゃぐしゃと思い切り掻き混ぜるように撫でる。ムキになって――天邪鬼な物言いをする姿も、虚勢を張るようでいて愛らしい。幸村は笑いを堪えきれずに、くつくつと咽喉を鳴らしながら佐助の頭をなで続けていった。

「いつまでも子ども扱いなんて、させないんだからねッ」
「だがお前は子どもだろう?」
「――ッ、違うって!忍だって!」
「同じよ。忍とて、子どもであるには変わりなかろう?さ、では散歩でも行こうか」
「え…――っ」

 言葉では適うはずもない。それでもムキになる佐助が可愛くなってしまった。幸村は再び彼を抱き上げると、肩に担いで笑いながら庭先に向った。
佐助は戸惑いながらも、ぷくう、と頬を膨らませていくだけだった。










 横にごろりと仰向けになっている佐助の胸の上に、上半身だけを乗り上げながら、幸村は指先で佐助の茜色の髪を弄んでいた。

「大きくなったなぁ…」
「なぁに?旦那ぁ」

 ぎゅ、と腕を絡めて胸元に引き寄せられ、幸村は佐助の顎先に口付けてから、今さっき思い出していたことを伝える。

「うん?お前が本当に大きくなったなと思ってな」
「何よ、いつもの子ども扱い?」

 首だけを廻らせて、佐助は額に落ちて張り付いていた髪を、指先で撫で上げた。

「寝ているお前を撫でていたのが、つい最近の事に思えるのだがな」

 ――気付けば後朝とはな。

「年寄りくさい言い方しないでよね〜。旦那、俺様を猫と勘違いしてんじゃないかって、よく思ったもんね」
「心外な」
「でも俺、旦那の手、気持ちよくて好き」

 ぎゅ、と佐助の腕が動いて幸村を抱き締めてくる。まだだるく力の入らない下肢に、佐助の足が絡んできて、幸村は慌てて身を捩った。

「これ…っ、佐助ッ」
「今は俺様の腕の中に収まっててよ」
「収まっておるが…」

 ぴた、と動きを止めると、ごそりと佐助は身体の向きを変えて上に乗り上げてきた。視線と視線がぶつかると、額、鼻先と唇を滑らせ、触れるだけの、啄ばむような口付けを繰り返してくる。
 擽ったさに、うんん、と小さく震えると、佐助は碧色の瞳を眇めて、再び横になると幸村を自分の腕の中に収めてきた。触れ合う肌の熱さが心地よくて、うっとりとしながら、幸村もまた佐助の背に腕を回していく。
 すると耳朶に唇を寄せて佐助が囁いてきた。

「好き、好きだよ…旦那」
「――…ッ」

 ぐわ、と顔だけ起してみると、佐助は優しく眇めた瞳のままで、幸村の背にかかる髪を指先に絡めながら、ゆったりと背を撫で下ろしていた。

「旦那は俺に言わなくてもいいけど、俺には言わせて。俺様、旦那が好き」
「う…う、うむ」

 ほわあ、と幸村の頬に朱が上る。そんな顔を見せるのが気恥ずかしくなり、幸村は佐助の胸に顔を埋めた。すると空かさず彼の腕が伸びてきて、後頭部に触れて撫でてくる。

「俺さ、旦那を好きになって、こうして触れ合えて、本当に幸せ。ねぇ、こんな幸せをね、俺は信じちゃいなかったんだ」
「佐助?」

 佐助の両手が幸村の頬に添えられる。顔を仰のかせられると、直ぐに甘く柔らかい口付けが降って来た。睫毛と睫毛が微かに触れて、互いの頬を擽る。そして佐助は額を幸村の額に、こつ、と当ててきた。

「忍として、ただ切り捨てられるだけだって…そう、覚悟してきたのに」
「――…」
「俺はさ、旦那が好きだ。愛してる…それって、凄いことなんだ」
「どうしてだ?」

 小首を傾げる幸村に、ふふ、と佐助は微笑みながら「企業秘密」と笑った。頬に添えられる両手に――手首に手を添えていると、触れた場所から熱くなってくる気がしてしまう。佐助の胸元に身体を預けながら、幸村は少年から青年に成長した彼を見下ろした。

 ――いつの間に、こんなにも。

 端正な顔つきで見つめてくる彼が、どうしようもなく愛しくなってくる。触れた処から、焼け付いて離れなければいいとさえ思ってしまう。幸村が湧き上がる羞恥のままに頬を熱くさせていると、にこりと佐助は微笑みかけてきた。

「もっと強くなるよ、俺」
「…楽しみにしていよう」

 する、と片方の手が頬から滑り落ちる。滑り落ちた手が、冷えてきた肩に降りかかり、暖めるように包み込んでくる。

「だから、俺を強くする為に、旦那も俺を必要としてね」
「しているぞ」
「旦那、大好き」

 嬉しそうに微笑む笑顔に、少年の面影が走る。どきん、と胸を高鳴らせながら、幸村は瞳を微かに泳がせ、そしてぐっと上体を屈みこませると、佐助の耳元に唇を近づけた。

「耳を貸せ」
「え?」

 聞き返す佐助の耳元に、こそり、と手を添えて囁く。

 ――俺だって、お前を愛している。

 そういうと、がばりと身体を起こして幸村は口元に手を添えてそっぽを向いた。

「俺の方が年期がいっているんだからなッ」

 ――追い越させやしない。

 だから追って来てほしい。形勢逆転しそうな現状に、精一杯の防壁を張って、幸村が告げてくる。そんな幸村に出会った日のやりとりを思い出して、佐助は口の中で笑いを噛み殺した。そして腕をぐっと伸ばすと、幸村を抱き締めるようにして起き上がる。

「旦那、好きッ!」
「な…――ッ」

 向き合って抱き締めあう。佐助は自分の足で幸村の腰を引き寄せながら、背に添えた手を下降させていった。はっきりと幸村の耳元で「好き」と何度も繰り返す。

「好きったら、好きッ!大好きだよ、旦那ッ」
「あ…、な…ッ」

 わなわな、と幸村の身体が熱を帯び、震え始める。それを腕の中で感じながらも、佐助はぐっと彼の腰を引き寄せて、止めとばかりに耳朶に囁いた。

「だからさ、もう1回…」
「破廉恥だ、馬鹿者ぉぉぉぉぉッ!」

 ――ばちんッ。

 直後、盛大な幸村の平手が佐助の頬にぶち当たった。拳でないだけマシだと思いながら、佐助はそれでもめげずに幸村を褥に押し倒していった。








 齢、七つにして人を殺めるを知り、八つにて戦を知り、そして数え十三の年に主を得、齢十八を過ぎて、愛しい人を得た。
 この先も、ずっと、この人と共に歩んでいく――どこまでも、ずっと。何があっても。
















100331/100404up これにて完結