野分の頃に





 秋の終わりだった。
 佐助が暗殺を依頼されて、真田の邸に忍び込んだのは、秋の終わりの出来事だった。そしてその暗殺は失敗した――今まで失敗などしたことなかった。失敗は即ち「死」そのものへと通じるものだ。
 だが彼の人は佐助を殺そうとはしなかった。

 ――そなた、我らに仕えるが良かろう。

 傷だらけだった佐助の手を取り、彼の人――真田昌幸は傷口に薬を塗り込みながら、そんな風に言った。それが、出会いとなった。






 ざざざ、と大きく木々が揺れて、雨の匂いを運んでくる。佐助は木の上から、ひょい、と地面に向かって身体を躍らせていった。

 ――とん。

 軽やかな動きで地面に降りると、その先に萩の塊があった。

「――――…」

 足音を立てずに側に近づき、佐助はそっとその萩を見下ろした。そして次の瞬間には思い切り腕を突っ込んだ。

「わああああッ!」
「弁丸様、何やってんのかな?」
「さ、佐助?離してくれッ」
「あんたのでかい図体がこの萩の中に納まるわけないでしょ?」

 ――どうしたのさ?

 幼い時分ならば解る。しかし既に彼は幼いと言うには、その時期を過ぎていた。すんなりと伸びた手足がこの萩の塊の中に納まるわけはない。

 ――子どもの時は良かったけどね。

 今と同じように何度も萩に腕を突っ込んでは、かくれんぼに興じる弁丸を引き上げたものだった。
 佐助の腕に引っ張られて、彼はしぶしぶながら立ち上がると、萩の中から身体を引き剥がす。はらはら、と紫色の花が彼が動くたびに地面に落ちた。佐助が彼の服についた葉を、屈み込みながら手で払っていると彼は俯きながら口羽をきった。

「明日、某…元服と相成る」
「うん、目出度い事じゃない?」
「…そう、なのだが…何か、こう……もの寂しくてな」
「はい?」

 俯く彼を、屈んでいると見上げる様相になる。佐助はそのまま片膝を地面につけたままで彼の表情を窺おうと、覗き込んでいった。

「弁丸として育ってきた今までの某は、何処に行ってしまうのだろうかと」
「そんなの変わる訳ないでしょ?」
「だが…もう…――」
「何よ、言ってみなって」

 ひょい、と膝を伸ばしてから、彼の顔を起こさせる。両手で彼の頬に手を添えて起させると、瞳を彼は下に落とした――視線を合わせたくないのだろう。

「お前に『弁丸』と呼ばれなくなるのが、何だか寂しくてな」
「そりゃ、呼び名も変わるでしょ?」

 彼は明日、元服となる――大人の仲間入りをして、名前を新たに貰う。いちいちそんな事を必要としない佐助にとっては、彼の今の気持ちは計り知れなかった。

 ――忍は、時に何でも切り替えないといけないから。

 その場毎で演じ続けることもある。潜入している時などは自分の名前も、身の上も、何もかもを上書きして、その役になりきる。

 ――がさがさがさ

 風が強く吹きすさび、木々を揺らした。先程よりもずっと雨の匂いが濃くなっている。彼の背に流した髪が、風に煽られていく。

「こんな時期だったな」

 舞い上がる木の葉を見上げて、彼は呟いた。「佐助に逢ったのは、こんな時期だった」と更に続けられて、ふと佐助もその時の事を思い出す。

「ああ、俺様が此処に来た時ね…こんな頃だったね、そういえば」
「そうだ。野分の頃だった。嵐のようにお前は現れて……」

 ――奪っていった。

 とん、と佐助の胸に片手を当てて、彼は半歩後ろに下がる。触れていた手が離れて、佐助は自分の腕を腰に当てた。言われた内容に思い当たる節が何もない。

「何を?俺様、何か奪った?」
「聞いても、笑うなよ?」

 彼は俯いてから、ふわりと顔を起して――空に舞い上がる木の葉を、萩の花を見送っていく。

「お前は、某の、心を奪っていった」
「え…――」

 弁丸は手を自分の胸に当てて、はっきりと口にした。その言葉が、さく、と佐助の耳に届く。だが言われた内容を理解するには、思考が止まってしまいそうだった。

 ――今、何て言った?

 聞き間違いではないかと、風の運んだ戯言ではないのかと、自分の耳を疑いたくなる。閉口しながら耳を澄ましていると、弁丸は更に続けていく。

「佐助が某を呼ぶ声が好きだ。声音が好きだ。だが、それも今日までと思うと…どうしても寂しくてな」

 へたりと眉を引き下げて、弱弱しい顔になる。眦を朱に染めて、まるで色付いた桃のようだった。その瞬間に、どきり、と佐助の胸が跳ねた。

 ――参った、何この色気。

 目の前の彼から、ふわりと色香を感じてしまった。背中の中心が、じわりと熱くなってくる。何とか平静を保とうと佐助は口元を強く引き絞った。
 普段の彼はそんな表情を見せたことはなかった。あの日、彼と出会ってから共に日々を過ごしてきたが、今の今までそんな風に彼を見たことはなかった。

 ――そりゃ、弁丸様のことは好きだけども。

 その気持ちに偽りはない。だがこの瞬間に、その『好き』が形を変えてしまう。それも元服前の――いわば子どもの彼の方が、先にその気持ちに気付いていた。

 ――先を越されちゃったね。

 自覚した気持ちは、どうにも隠しきれない。自問する時間も要らなかった。佐助は手を伸ばすと、弁丸の額を指先で弾いた。

「恥ずかしいなぁ…もう、本当にあんたは恥ずかしい子ッ!」
「すまぬ」

 ぴん、と張られた額を手で摩りながら弁丸は俯いた。言ってしまってから、彼の頬は熟れた桃のように染まって行った。

「だけどそんな処が、俺様の好きな処だよ」
「え…――」

 小さくぼそりと云った言葉が、萩の枝に遮られる。ざわざわ、と枝が風に吹かれて音を立てた。佐助は腕を広げて胸の中に彼を閉じ込めたい気持ちを抑えて、手を後ろ手に組むと、顔を寄せた。

「名前なんてどうでもいい。貴方が其処に居てくれるだけで」
「佐助?」

 ぱちぱち、と瞬きをする彼が、自分の視界に入り込んでくる。顔が近くて、そのまま触れてしまいたい気持ちになるのを、ぐっと堪えて佐助は微笑んだ。

「新しい名前、一番に教えてね」

 ――そうしたら、その名前を呼んであげる。

 ぶわり、と一際大きく風が起きて、二人の間をすり抜ける。強い風から髪が乱れるのを抑えながら、弁丸は声を絞り出した。

「ああ…――呼んでくれ。呼び、続けてくれ」

 大きく頷きながら、空を見上げる。雨雲が集まり出す空に嵐の予感を感じて、佐助は手を差し出した。弁丸は迷うことなくその手に自分の手を重ねていった。

 恋は待っていてくれる。最初の出会い――それを恋と呼ぶには早すぎたけど、今はもう早すぎるなんて事はない。

 ――笑わないでね?

 彼の名前が新しくなったら、その時にはこの胸に吹き荒れる嵐もろともに、彼を呼んであげよう。
 佐助は弁丸の手を引きながら、そんな風に感じていった。










「ほれ、これが我が子よ」

 呼ばれて行った先には、泣きじゃくる子どもが居た。嵐の音に敏感になって、えぐえぐと泣きじゃくる。それを昌幸が抱きかかえて、左右に揺れると彼は鼻を鳴らした。

「どうだ、可愛かろう?」
「…何で、泣いているのですか」
「嵐が怖いのだろう、のう、弁丸?」

 ひっく、としゃくり上げ、弁丸は大きな瞳を潤ませていった。だが昌幸は自分の腕から弁丸を引き剥がして、佐助に向けてきた。佐助は否応無しに彼を腕の中に収める。

 ――熱い、身体。

 柔らかく、熱い幼子の身体が自分にしがみ付いてくる。何故かそれが、酷く愛しくてならない。じわじわと視界が歪んでくると、抱き締めていた筈の弁丸が涙を引っ込めて、小さな紅葉の手を伸ばしてきた。

「いたい?こわい?」
「な、何でもな…――」

 そのまま涙が止め処なく溢れてならなかった。弁丸は昌幸のほうを見上げ、そして今度は佐助の頭を小さな手でなでてきた。

「いいこ、いいこ、こわくない。弁丸もこわくないよ」

 ――だから泣き止んで。

 嵐の日に、こんな温もりがあるなんて事を知った。全ては嵐の中で、押し流されるかのようにして起こったことだった。













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