骨まで愛して





 躑躅ヶ崎館に報告に参じ、そのまま上田に戻る。信玄の前では変調を見せることなく済ませていられたのだが、流石に上田に近づいた時に手甲の先から、ぱら、と赤い滴が零れ落ちてきていた。

 ――厄日だなぁ、まったく。

 怪我をするなんて久しぶりのことだ。避け切れずに千本を一本だけ、左の上腕に食らった。たいした傷ではないと思っていたが、次第にじくじくと痛んでくる。

 ――痛みなんて、忘れたはずなのに。

 急いで上田への道を駆け続けながら、少しの変化も赦さないかのように辺りへの警戒をしていく。いくら忍隊の者たちがいるとしても、全て任せきりに出来ないのが性分でもある。

 ――ぱら…

 小さな粒になって指先の鉤爪から血が零れ落ちる。それに舌打ちをしながら、佐助は駆け出す足に力を込めていった。










 還って来て一番最初に幸村に会うのがいつもの事――だが佐助は今回はそれをしなかった。そっと戻ると一室に入り込む。鼻の良い主に見つかって大目玉を食らう前に、何とかこの不覚の瑕疵をどうにかしたかった。
 身体全体を覆う黒い装束をばさばさと勢いよく脱ぎ払う。足元に、がしゃ、と外したばかりの手甲が音を立てて落ちた。

 ――おっと、やばい、やばい。

 今の音を聞きつけて彼がやってくるか知れない。ひたり、と佐助は息を殺すと周りの気配を探った。

「――――…」

 だが誰の気配もしない――その事に少しだけ気を赦し、佐助は口布を引き下ろした。全身黒で統一した姿は、闇夜に紛れる為だ。この邸の一室とても、障子を閉めきってしまえば闇に近い。
 その中で剥きだしにした腕の白さが、浮いて見えるようだった。佐助は黒い装束を剥ぎ取っていく――すると闇から抜け出していくような錯覚に落ちいってくる。そしてその場に座り込むと天井に向かって声をかけた。

「ちょっと、見ているんなら声かけろよな」
「――頭にしては珍しい血臭と思ってな」

 ずるり、と闇の中から才蔵が姿を現す。天井から――闇の中に身体を浸した姿を見咎めて、佐助は晒しを口に咥えると、びぃ、と裂いた。ぶらりと闇に漂う才蔵に背を向けたまま、佐助はこともなげに淡々と状況報告を求めた。

「で?留守中に変わったことは?」
「ない。ただ…――」
「ただ、何よ?」

 ――幸村様が暇をしていた。

 首を上に向けて才蔵を見ると、彼はこちらを見てもいない――視線だけを外のほうへと向けていた。たぶん幸村が暇している姿をみても、誰も相手などしていない――むしろ相手をしたが最後、彼の手合わせの代償として戦場に趣く前に怪我人になってしまう。

 ――俺様しか相手にならないしねぇ。

 く、と咽喉の奥で笑う。それがまるで幸村を独占できるのが――御することが出来るのが、自分だけと云われているような気分になる。

「そんなことか…それは後で俺様がなんとかしておくさ。それより、針、持ってない?」
「――そんなに深いのか?」

 ずるる、と才蔵の身体が闇からぶら下がり、佐助の肩口に顎先を向けるほどに降りて来る。その光景にいつも蜘蛛のようだと思うが、口にはしない。佐助は腕を振り上げて患部を診せる。

「ん…――裂傷じゃないんだけど、縫っちまった方が楽」
「いっそ焼いてしまえ」
「――馬鹿言うなよ。痕が酷いじゃない?焼くと」
「他は?」
「どこも。まぁ、骨やられなくて良かったよ。骨いってたら、今こんなにのんびりお前となんて話してられないしな」
「ふん…――だが傷を作らせるとは…まだ未熟なのだな」

 眉間に皺を寄せて睨みつけると、才蔵は「千本使いなら、十蔵にでも聞いておくか」と呟く。筧十蔵は針の使い手として一目置く相手だ――彼の判断に佐助は任せながら、うけとった針を手にして弄ぶ。すると背後から顎先を包むようにして才蔵の手が伸びてくる。

「ふん…しかし頭はあれだな」
「どれ?」

 ぱし、とその手を払いのけ、佐助が睨みあげる。すると才蔵は天井の闇に戻りながら、くくく、と咽喉の奥で含み笑いを漏らしていく。

「その闇色の装束、忍として相応しく」

 ――闇が似合う。

「褒め言葉だよね。あ、そうそう。俺様戻ってきたから、他の奴らに伝令」

 佐助は、付き合ってられっか、とはき捨てると、手をひらりと彼のほうへと向けた。すると二人の間に、ぴしり、と緊張した空気が走る。

「何なりと」
「周辺、気配っておいて。俺様にこれ刺し込んだのがまだ紛れてる。見つけ次第…」

 ――消しておいて。

 す、と声を落として言うと、静かな闇の中で「諾」と声が響く。

「あい解った」

 すぅ、と背後から闇の気配が消える。それと同時にこの邸の中にあった忍の気配――それも同胞だけだが、それらが一気に霧散するかのように放たれるのが解った。

 ――やれやれ。

 佐助はやっとひと心地着くと、針を火で炙り、左腕の傷を縫いこんでいった。










 縫った傷の上に晒しを撒きつけていると、ばたばた、と足音が響いてきた。そして背後の障子が、ばしん、と勢いよく開け放たれた。
 何事かと振り返ると、其処には息せき切った幸村が仁王立ちしていた。

「だ、旦那?」

 振り返った佐助の目に、憤怒の形相の幸村が映る。幸村は何も言わずに、ずかずかと佐助の傍にくると、大きく腕を振り上げた。

「――…こんの、馬鹿者ッ」

 ――ゴッ

 ずん、と頭に彼の拳がぶち当たる。いつも信玄と殴り合いをしている拳だ――相当痛い。いや、痛いなんてものじゃない。下手をしたら頭蓋が割れる。

 ――この、馬鹿力ッ!

 響く頭蓋を振り、佐助は頭を両手で押さえると涙目になって振り仰いだ。

「な…――ちょ、何で俺様殴られなきゃならないのさ?」
「帰ってきたら、まずは主に目通りするが常であろうッ」

 びし、と幸村は自分の方へと親指を立てて示す。殴ったことを謝る気配は微塵もなく、今だに佐助の前に仁王立ちして、怒りの形相だ。だが佐助も黙っている訳ではない。

「そりゃそうだけどッ!緊急だったからッ」
「それならば、尚のことだ…ッ」

 ――それくらい察してよ、旦那ッ。

 歯をむき出しにして立ち上がると、正面でぎりぎりと睨んでいた幸村が、ふと、佐助の腕に視線を落とした。

 ――ふ。

 不意に晒しの上に手が添えられる。かと思うと、今度は幸村の身体が佐助の胸にそっと傾いてきた。そのまま幸村は腕を回して佐助にしがみ付くと、はああ、と大きな溜息をつきながら肩から力を抜いた。

「旦那?」
「心配、したんだぞ?」

 顔を佐助の胸元に埋めたままの幸村が、拗ねた風に言う。そんな風にして甘えられると弱い――佐助は今思い切り殴られたのを忘れる勢いで、抱きしめ返すと幸村の肩口に鼻先を埋めた。

「――ごめんね、旦那」

 幸村の肩口に額を摺り寄せながら抱きしめると、こくりと頷いた幸村が、ふと佐助の脱ぎ散らからした装束へと視線を向ける。

「黒…――隠密か」
「まぁね」

 眉根を引き絞って、幸村が何かを耐えていくかのように口元を引き結ぶ。それを腕の中で閉じ込めたまま見下ろすと、とん、と幸村が胸を押してきた。
 腕を離して、幸村から離れると、佐助は再びその場に座り込んで後片付けをしていく。すると幸村がその傍らに座り込んで、佐助を横からじっと見上げてきた。

 ――むぎゅ

「――…ひゃっ!ちょ、何急に?」

 横から急に幸村が脇腹を掴んでくる。不意の行動に声を上げてしまうと、幸村は面白そうに――いや、何かを確認するかのように、むにむに、と佐助の脇腹を掴んでいく。
 脇腹をつかまれ、擽ったい佐助は腕を交差して自分の腹をガードする。そしてじりじりと足だけで幸村から離れると、何すんの、と笑いを噛み殺しながら言った。
 だが幸村は逃げ腰になった佐助に詰め寄ってくる。

「何なのさ、もう…!」
「佐助は細いな、と思って」
「やだなぁ…気にしているのに」

 まじまじと腹の辺りを見つめられて、余計に自分の腕でガードしてしまう。腕を縫うときに全て上半身は脱いでしまっていた為、剥きだしになっている素肌が幸村の視線を痛いほど受けていく。

「す、すまぬ。だが…――こうして見ると、細い」
「まぁね。忍はあんまりガタイ良かったりしちゃ駄目だし。気ぃ、使ってんのよ、これでも」

 すう、と息を吸い込むと肋骨が浮き上がる――だが、まったく骨と皮という訳でなく、其処にはしっかりと筋肉だってついている。

 ――必要最低限なんだよね。

 忍としての身体としては、嬉しい限りだが、ただ一介の男としてはそれは細いかもしれない。言ってしまえば幸村よりも華奢に見えてしまうほどだ。

「頼りないというわけではないぞ。お前の身体は…しなやかなのにな」

 ――でもこんなに細かったか?

 不思議そうに幸村が首を傾げる。それはいつもは装備を硬くしているせいだと、口にでかかったが佐助はあえてその言葉を飲み込んだ。

 ――着膨れしているだけなんて、ちょっと悲しいもんな。

 自嘲気味に、だが本当のことを告げる。

「でもさ、肉があればあんまり速く奔れないでしょ?」
「だが心配だ」
「うん?」

 そ、と幸村の手が腕に伸びてくる。縫い付けたばかりの腕に彼の掌が触れ、びりり、と痛みが走った。だが構わずにいると再び幸村が胸元に額をこすりつけてくる。

 ――甘えてくるなんて珍しい。

 擦り寄る彼を優しくなでていく。すると幸村が胡坐をかく佐助の腰に回して、抱きしめていく。そんな幸村を受け止めて、彼の背に流れる髪を指先で弄ぶと、佐助はそのひと房をつまみあげて口付けた。

「何が心配なの、旦那は?」
「すぐに折れてしまいそうで、心配だ」
「大丈夫、俺様、骨だけは図太いから」

 優しく撫でていると、幸村が身体を起こしてくる。どうにも収まりが悪い。佐助が子どもをあやすように自分の肩口に彼の頭を引き寄せていく。

「大丈夫だよ――…旦那ぁ」

 ぎゅっと抱きしめながら、幸村の耳朶に囁く。

「この肉も皮も、何処を切り裂かれても、骨だけになっても」
「――…」
「それでもあんたの傍にいるから」

 強く引き寄せる幸村の背の――肩甲骨に掌を這わせる。そして幸村の肩口を押さえると、ぐい、と押し込んでから正面から見つめた。

「何があっても俺様はあんたの傍に居るよ。傍に居て、旦那を守るから」
「佐助…――」
「だから骨まで愛してね」

 にこ、と幸村に向かって笑いかけると、幸村は顔をくしゃりと歪めると「お前こそ」と言ってしがみ付いてきた。
 幸村の熱く、しっかりとした体躯を抱きしめながら、佐助はただ彼のを腕の中に閉じ込めていくだけだった。














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