月虹



 ――貴方の時間が、来る。



 夜半に不意に目が覚め、隣にあった筈の温もりがない事に気づいた。ゆっくりと身体を起こし辺りを見回すが、ただ暗闇が其処にあるだけだった。

 ――何処に。

 幸村は単衣の上に羽織を引っ掛けると、褥の中から起き上がり、かたり、と戸を開けた。顔を起こして周りを見回すと直に目的の人物を発見する――其処には佐助が空を仰いで見ていた。

「行くのか」
「起こしちゃった?参ったな、気づかれないようにしてたんだけど」

 佐助は困ったように眉を下げて肩越しに振り返る。幸村は足を進めて、ぺたぺた、と縁側にいく。先程までこの身体を抱いていたのが嘘のように、佐助は平然と其処に立ち、こちらに近づこうとはしない。
 空を見上げれば、白く光る月光が降り注いで、地面に青白い影を落としていた。

「今日は、満月か……行くのか、佐助」
「俺様のお仕事の時間だからね」
「――――…」

 空には浩々と照る月がある。よく観てみれば月の回りに円が出来ており、ほのかに虹のように輝いていた。

 ――珍しい。

「武運を……」

 眩しく月を仰ぎ見て、いつものように何気に口を開いた。すると、佐助は可笑しそうに、咽喉の奥でくすくすと笑うと、武運はないかな、と手を振った。

「俺様は闇に生きる忍だよ」
 ――今日はちゃんと、忍のお仕事だから。

 その言葉の意味する所が、戦場よりも凄惨なものであると示唆しているようだった。正々堂々と戦いに行くのではなく、相手の裏をかいては、騙しこんでいくようなものだ。

 ――それでも佐助には無事で戻ってきて欲しい。

 幸村は静かに空を仰ぐと、すう、と夜気を吸い込んだ。そして祈るように告げる。

「月明かりが、佐助を照らさぬよう…」
「そうだね、どうせなら新月の方がいい」
 ――闇に少しでも融けてしまえるから。

 そんな声が聞こえたと思ったら、既に佐助の姿は其処にはなかった。先程まで影を落として其処に存在していた筈の彼の姿がない。
 今に始まったことでもないが、どうしても目の前で消え去られると不安が募る。
 幸村は羽織の袷を掴みこむと、ぎゅっと引き寄せていく。そしてその場に膝をつくと、溜息をついた。
 身体のだるさは未だに取れてはいない――ふと手首を見ると、赤く蚯蚓腫れが出来ていた。それをもう片方の手で摩ると、そっと其処に口付けを落とす。

 ――佐助の、爪の跡。

 綺麗にそろえられていた彼の爪――その爪が強く自分を掻き抱くときに、この肌に食い込んできていた。それを思い出して刹那くなってくる。

「たまには傍に居てくれ、と…」
 ――言えればいいのに。

 でももし、言えても、それが実現することは少ない。幼い頃に強請ったときも佐助は「いいよ」と軽くいなしてくれたが、終ぞそれが実現することはなかった。

「あの時から…佐助は某にもうひとつの顔を見せてはくれなくなった」

 ふと思い出したのは幼い頃の記憶だ――それは今では陽炎のように揺らめいて、夢か現が判断しかねるほどだ。

 ――あの時、佐助とは住まう世界が違うと知った。

 彼には彼の分がある――気づくといつも距離がある。だがそんな境界を曖昧にして自分の領土に彼を引き入れたいのに、彼はそれをしようとしない。それを思って幸村は腕を組み思案すると、ゆっくりと虹を纏う月を見上げていった。










 ――どんどん勘が鋭くなって、困るね。

 木々の中を飛び交いながら、佐助はふとそんな風に感じた。今までは佐助が起きていようが気にもしなかった筈だ。それなのにこの所、どうにも勘が良い。

 ――特に、肌を合わせるようになってからは…。

 自分の身体の半分を彼に融け合わせてしまっているのではないかとさえ感じる。それほどに幸村が佐助に気をつけているのだろう――いつでも彼の視線を感じるようになった気がする。

 ――息苦しくはないけれどさ。

 それでもこんな忍としての仕事の時には、出来れば彼には見送られたくない。忍としての仕事が、闇に溶け合うような、闇の生き物であることを知らしめさせられるようで、自己嫌悪にさえ陥ってしまうのだ。

「旦那は…太陽の人なのにねぇ」

 ――ザッ。

 樹の幹に足場を構えて立ち止まる。そして息を潜めて辺りを窺った。辺りの気配を探ると、佐助は口元を吊り上げた。そして自分についてきた配下のものに手信号で、帰れ、と伝える。

 ――此処は俺様一人でいいよ。

 配下の者で賄っても良いが、それよりも今の自分のこの気持ちを戦って晴らしたい――時々この性を才蔵などは厭って忠告してくるが、昂ぶる性を抑えることも出来ない。
 瞼を閉じて、ふう、と意識を内側に押さえ込む。自分が忍であることを再び認識するための儀式のようなものだ。
 いくら彼と肌を合わせても、想いを合わせても、到底染まってはいけない――忘れてはいけない、自分が自分であり、忍であるということ。
幸村は佐助が静かに出かけようとすると、必ず見送るようになった。

 ――慣れちゃいけない。

 見送られるのは慣れていない。いや、慣れない――どんな顔をして対峙すればいいのかすら判らなくなってしまうのだ。

 ――飼いならされた忍なんてさ…惨めなだけだ。

 くん、と瞳を開けたとき、其処には残忍な光だけが宿る。この明るい月の下で、敵に存在を示すように殺気を含ませる。

 ――ザワ…

 取り囲む気配が一気に殺気だった。それを肌でびりびりと感じると、佐助は手元に自分の得物を持つと、ふわりと身体を樹の幹から舞い上がらせた。

「相手が悪かったねぇ…怨まないでよ」

 言うや否や、辺りに血煙が沸き起こっていった。










 どれくらい前からだったか、国境への侵入者を屠った事がある。別段それははじめてのことでもなく、ただこの城に――仕えるようになってからは、この城の領地を取り巻く境界には気を配っていた。
 その中でも命知らずは多いもので、まだ少年の域を出ない佐助に、容易く撃ち伏せられていくのは、いつもの事だった。

 ――どいつもこいつも懲りないねぇ…

 ぐい、と頬に飛び散った返り血を手の甲で拭い、ごしごしとそれを上着の横に擦り付けて拭う。まだ乾く気配もなかった血は、あっさりと足跡を残して佐助の身体を染めていった。

 ――ガサ…

「――……」

 落ち葉を踏みしめる音に首を巡らせると、其処には幼い幼児が居た――それが弁丸だと気づくのには、然程時間も必要ではなかった。
彼の姿を見つけた瞬間、しまった、と気づいた。一気に血の気が身体から引いていく。

「――――…ッ」

 彼にこんな姿を、こんな場面を見せるつもりはなかった。
 彼らを――彼を守りたい。そう願っていたからこそ、この身を費やしてきた。それを知られるのは何故か怖くて、いつも隠して出てきていたのに、こんな場面にそぐわない幼子が呆然と立ち尽くしている。

「……―――」

 弁丸は大きな目を、より一層大きくして、佐助を観てから周りを見た。そして再び佐助を見上げると、その大きな瞳が潤みだしていく。

「う……――」

 弁丸の大きな、葡萄の粒のような瞳がみるみる内に潤んでくる。
 それを観て、佐助は自分の今の姿を思い出してしまった――それは血に塗れ、此処に転がっている者たちを屠った鬼に他ならない。

 ――しまった、しまった、しまった…ッ!

 頭の中では警鐘のように同じ言葉が駆け巡っていた。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんッッ」

 ――怖がらせてしまった。

 その場に立ち尽くして、両手で拳を作って、弁丸はこれでもかというくらいの大音声で声を張り上げて泣いた。それが恐怖から来る涙だと、見ていて気づいてしまう。そしてその恐怖を与えてしまったのが、他でもない自分自身なのだと、気づいてしまった。

「あ……――」

 逃げたくなった。一歩後ろに後退すると、がさり、と足元が音を立てた。だが目の前の弁丸を放り投げてもいられない。
 佐助は覚悟を決めて歩を前へと押し出し、そろそろと近づいて手を伸ばした。

「弁丸様…――」

 声が、咽喉が渇いて張り付いて、掠れた無様な声しか出なかった。そして伸ばした手に血がこべり付いていることにも気づいて、抱きしめる事は躊躇われた。それでなくてもこの手には鍵爪がついている――迂闊に触れていたら、彼の身を傷つけてしまうところだった。
 両腕をだらりと脇に流し、膝をついて項垂れる。

「うわぁぁぁぁ――ぁぁん」

 泣きじゃくる弁丸を前にして、どうしたらいいのか判らなかった。

「さすけ、さすけ…ッ」

 弁丸は、わあわあ、と大きな声で泣いている。

 ――どんッ。

「――――…ッ!」

 弁丸は佐助の名を繰り返し呼んでは、小さな身体を体当たりさせてしがみついてきた。同じ目線で、腕を伸ばして佐助の頭を抱え込もうと必死になる。

 ――ぎゅうっ。

 小さな手が、佐助の肌に食い込むくらいに強く握り締めてくる。しがみ付いて、強く強くしがみ付いてきたのだ。
 泣きながら、大粒の涙を流しながら――恐怖もあっただろうに――それでも佐助を抱きしめてくれた。

「あ…――」

 じわりと目頭が熱くなってきた。それだけでなく、胸の辺りが締め付けられるかのようだった。
 小さな身体は熱くて、その熱さに涙が出そうだった。佐助は両手の鉤爪を勢い良く外すと、弁丸の小さな身体を抱え抱きしめた。

「ごめん、ごめんなさい、弁丸さま…」

 謝罪の言葉は何で出てきたのか判らなかった。
ただ小さく熱い身体を抱きしめながら、自分が修羅の者であると――闇に生きるべき者だと知った。










 返り血すら浴びずに仕事を終えると、佐助はすっきりしたような顔で帰路についていた。片付けは配下の者に任せればいい。知れず闇に葬りさるだけだ。それを考えると、今この場で鼻歌さえ歌いたくなる。

 ――とん。

 足場を取り、屋敷の方へと視線を流してから、佐助は額に手を当てて空を仰いだ。まだ其処には浩々と照る白い月がある。

 ――なんで待ってるんだよ。

 彼が気づかなければいい。そうすれば自分もまたこの闇の気配を纏ったままで居られる。忍という性其のものの――獣のままで居られるのに。
 だがそんな願いは叶いはしそうになかった。不意に彼が縁側で空を見上げ、佐助の姿を見つけてしまった――見つけて、そして嬉しそうに瞳を眇めた。
 月明かりに照らされた、青い光の彼はそれでも太陽のように鮮やかに見えてしまう。

 ――ああもう、俺はもうこの人には適わない。

 とん、と佐助は樹の幹から足場を踊らせ、彼の元に舞い降りる。すると、幸村はただ「おかえり」とだけ応えると、少し眠たそうに目を瞬いた。

「ずっと起きてたの、旦那?」
「ああ…今宵の月は綺麗だったのでな」

 ほら、と指先を中天に差し向けて幸村が微笑む。それを真正面で見つめながら、佐助は頭を抱えるだけだった。

「――寝てて欲しかったなぁ…」

 ほとほと厭そうに言ったのに、幸村はくすくすと咽喉の奥から締め出すような笑い声を零した。そして手を差し伸べてくる。

「某を寝させるのは、お主の役目であろう?」
「――それって、誘ってる?」

 差し伸べられた手を引き、自分の肩越しにかけさせて、佐助が身を乗り出す。鼻が近づき、触れ合いそうになるくらいに近づくと、幸村は両腕を佐助の首に絡ませてきた。

「血臭をさせてくる佐助が悪い」

 ――くん。

 強く佐助の匂いを嗅ぐように鼻を動かす幸村に、佐助は彼の鼻先を指で摘むと、直に指先を離す。そして苦笑しながら彼の背中に手を宛がった。

「――悪食に育って…血の残り香で興奮するなんて、獣だけだよ」
「佐助はどうなんだ?」
「言うまでもないね」

 幸村の身体を抱え上げるようにして持ち上げ、早々に靴も脱ぎ捨てて部屋の中にもつれ込む。

 ――怖くないの?

 耳元に囁きながら聞くと、幸村は首を軽く振った。それを見下ろしながら、彼に跨って上着を剥ぎ取る。すると脱いだばかりの肌に、幸村の手がするりと触れてきた。

「傷は…何処にもないな」
「当たり前でしょ?」

 ――俺様を誰だと思ってるわけ?

 ふふふ、と笑いながら身体を折りたたみ、幸村の単衣を肌蹴させる。弄ぶように指に絡まる髪を褥の上に広げると、まるで花の中に絡まる蜘蛛のように見えた。
 腕を幸村の頭の横に着くと、直に幸村の手が佐助の腕に絡まってくる。

「怖くはない…あの時も、怖かったのではない」
「――……っ」

 びく、と佐助の肩が揺れた。幸村を見下ろしながら、佐助が驚いたように瞳を見開くのが判った。幸村はじっと彼を見上げながら、昔を思い出して言う。

「御主が、居なくなってしまう未来が来ることを…考えてしまった」
「え…――」

 ゆるゆると佐助の腕に這わせていた手を伸ばし、佐助の頬に触れる。そして自分に近づくように頭を強く引き寄せた。引力に逆らうこともせずに、佐助の顔が近づいてくる。

「某が知らぬ間に、佐助がいなくなる――そんな日が来ることを、恐れた」
「じゃあ、俺を怖がったんじゃなくて…」

 佐助が言葉を発しようとした瞬間に、その言葉を吸い取るように口付ける。

「佐助が忍で、手を血に染めていたとしても、そばに居て欲しかった。それは今も変わることはござらん」
「旦那…――」
「佐助の手は、腕は、傷だらけだ。この傷が某を守っている。そう思うと…どんなに血に染まっていようが、某には愛しい腕だ」

 佐助の身体を自身の上に受け止め、彼の指先に自分の指を絡めて、一本ずつ口付ける。そうしているのを許しながら、佐助が指先で、とん、と幸村の唇を跳ねる。

「俺ね、ささやかな望みがあるの」
「何だ?」

 首を傾げて見上げると、佐助は嬉しそうに瞳を眇めて笑っていた。

「大好きな人を、足を負ってでも外に出さないでね、ずっと傍に置いておくの。世話は全部、俺がするわけ。で、ずっと、ずっと……――」

 言いながら、立てた幸村の膝に手を当てて、ぐっと開く。そしてその間に自分の身体を滑り込ませて、首筋に顔を埋めて吸い上げてくる。

 ――ぎゅぅ。

 頚動脈の辺りを吸い込まれ、少しだけ首が絞められるような感覚が走る。幸村はその刺激に身を硬くしていく。

「あ…――、っ」
「でも叶わないって知っているし、痛い思いさせるのは…ね」

 ――本意じゃないし。

 つつ、と首筋に舌を這わせながら、佐助は幸村の胸元に顔を寄せる。

「貴方はやっぱり戦場を駆けているのが似合うよ」
「佐助…――」
「俺様もどんなに貴方が返り血を浴びようが、血に染まろうが、いつまでも傍にいるから」

 幸村の胸元――心臓の上に額を押し付け、腰に腕を回して強く幸村の身体を抱きしめる。幸村はそんな佐助の頭を柔らかく、やさしく、抱きしめた。

「だから俺を飼いならしていいから」
 ――傍に居させて。

 佐助がそういうと、幸村が上半身を起こして応えのように彼の唇を奪う。そうすると互いの吐息と、肌の熱さだけが迫ってくるだけだった。熱い吐息の合間に、佐助の肌にしがみ付きながら、途切れ途切れに幸村は言った。

「佐助は…月のように、静かで綺麗だ」
「それ、何の口説き文句?」
「さあ……?」

 佐助の身体に肢体を絡めとられながら、幸村が見上げた空に、まだ薄く満月が照っていた。















090630 殺伐としてますねぇ…