Scar





 しっとりと濡れた気配が部屋中に蔓延しているようだった。
 ふぅ、ふぅ、と胸元を上下に荒々しく動かしながら呼吸を整えていく。むき出しの胸には汗が光り、その表面を艶かしく映しこんでいた。

「旦那……――」

 額を寄せて呼びかけると、閉じていた瞼を引き上げ、幸村が見上げてきた。
 幸村の両手首を、自分の両手で掴み込み、頭上へと縫いつけたまま、彼の足の間に身体を滑り込ませている。そしてその口元に、吐息すら奪い去るように口付けていく。

 ――ずる…

 濡れた音と共に、繋がっていた身体を引き離す。それでも離れがたくて、身体を重ねていく。幸村の身体の上に、己の身体の全てを預けるように覆いかぶさっていると、もぞ、と彼が足を動かした。

「ん……――」

 甘い吐息が鼻から漏れ出る――それでも、深く、浅く、口付けを繰り返していく。
 ちゅ、ちゅ、と啄ばむ口付けの合間に、擦れた幸村の声が佐助の耳に触れた。

「佐助……手を」
「うん?手……?」
「手を、離してくれぬか」

 掴んでいる両手首の先から、ぱたぱた、と掌が動く。それを見て佐助は上半身を起こしながら、手首諸共彼の腕を引っ張り上半身を引き上げた。
 そして掴んでいた両手首を、そっと手から引き剥がす――すると手首には紅く、くっきりとした痕が出来てしまっていた。それを見て、片手で手首を擦ると、幸村は自由になっている左手で額にかかる髪を掻き揚げていく。

 ――ぽた。

 髪の端から、汗の雫が佐助の手の甲へと落ちる。その仕草を見ているだけで、再び胸がどきどきと脈打ちそうになるが、それを押さえながら紅くなった主の手首を擦る。

「ああ……ごめん、旦那。痕付いちゃったみたい」
「そうか…気にしなくてよいぞ。それより、もっと…」
「もっとしたい?」

 ぼうっとしたままの幸村が、擦っている手首を見つめながら――まだ熱に浮されているかのように、ぼそりと云う。それに合わせて、にこにこと笑顔を向けると、今度はボッと火が出るかのように真っ赤になった。

「違…――ッ。そうじゃなくて」
「じゃあ、何?」

 ――お願い、訊くよ?

 今さっきまで、しどけなく佐助に身体を開いていたとは思えないほどの初心さだ。紅くなる幸村を下から見上げるように上半身を屈めて、彼の顔を覗き込む。
 すると照れ隠しなのか、幸村は自由になっている左手を握りこみ、口元に寄せた。

「もっと、その……佐助を感じられればと」
「うわぁ、何それ。可愛いねぇ」
「――……ッ」

 ぱぁ、と佐助が表情を華やかせると、幸村はどんどん真っ赤になっていく。合わせてぶるぶると震えてくるものだから、今度は佐助が慌てて否定した。
 此処で怒らせてしまったら堪ったものではない。

「あ、ごめん、ごめん。茶化したんじゃないよ」
 ――ちゃんと訊くよ?

 幸村の機嫌を損ねないように、彼の話を聞くのだと示すと、幸村は躊躇いがちに口を開いたり、閉じたりを繰り返す。
 そして近場にあった単を手繰り寄せ、肩にかけていく。それを手伝いながらも、幸村の言葉を待っていると、唇を尖らせて幸村が言った。

「某が触れても、いつも衣擦れしか感じられぬ。それが口惜しいのだ」
「そういうもんかね?」

 小さな不満だ――今だって、素肌を晒しているのは幸村だけで、佐助はいつもと変わりない姿のままだ。ただ違うといえば、額宛がないくらいか。

「某が感じられるのは…この手で感じられるのは、一握り。もっと佐助を知りたい」
「気持ち良いだけじゃ、駄目?」
「駄目だ」

 濡れたままの身体をさらりと手ぬぐいで拭うと、座ったままの幸村の腰元に手を回して帯を締める。腕を回している合間に、くしゃ、と幸村の手が佐助の頭を撫でた。
 ぴったりと彼の胸にしがみ付きながら、佐助は空笑いを浮かべた。

「困ったなぁ……」
「佐助も脱いで、触れてみてくれぬか」
「困っちゃうんだよね、俺」
「――……」

 幸村の髪を撫でる手が止まった。佐助は彼の胸元にしがみ付いたまま、参ったな、と繰り返した。そして幸村を見上げた。

「だってさ、俺様、忍だから」
「――……?」
「忍はさ、弱みとか見せられないのよ。いつでも動けるようにしておかないと」
「今は大丈夫であろう?」

 よいしょ、と声をかけて幸村から離れながら、佐助は苦笑している。眉根が寄って本当に困っている風に窺えた。だが幸村も引き下がっては居なかった。

「服を脱ぐくらい、然程弊害はなかろう?」
「…そう、でもさ。染み付いた習性ってもんだぁよ」

 幸村の正面に胡坐をかいて座り、ぽりぽりと頭を掻く。視線は横に流され、幸村と向かい合っては居なかった。そして淡々と佐助は先を続けた。

「だってさ、丸腰になって、後から攻撃されたら?相手が何を持っているかも解らない。情事の間に暗殺されるなんて、俺達の世界じゃままあることだしね」
「ならば、どうしたらいい?」

 ひやりとした怜悧な空気が佐助から漂うようだった。幸村の前では滅多にそんな表情も見せない――忍がどんなものなのか、計り知れない部分があるのは確かだ。
 生き方が違うことを、此処で全て洗いざらい広げて、互いの違いをひけらかすほど、愚かでもない。それでも、幸村は少しでも傍に佐助を感じてみたいと思っていた。
 佐助は辺りをきょろきょろと見たり、うーん、と唸りながら天井を見上げたりして見せる。その仕草のひとつひとつを焼き付けるように見ていると「あんまり見ないで」と再び困った風に佐助が眉根を寄せる。
 だがそう言われても引く気はない――自分ばかり剥かれて行くのが癪に障ることもある。どう考えても自分が損をしているような気がしてならない。

 ――佐助は某をどう思っているのか。

 こうして身体を重ねることも、仕事だと言われたらどうしようか。
 そんな不安も全て打ち消して欲しい――幸村にしてみれば半分賭けているようなものだった。
 すると、ふー、と大きな溜息をついて、頬杖をついた佐助が正面から見つめてきた。

「そうまでして俺様の身体見たいの?案外旦那ってすけべなんだねぇ」
「――…ううう煩いッ」

 言葉は軽い。
 思わず言われた言葉にカッと反論すると、あはは、と佐助は笑って見せた。そしてニヤリと微笑みながら、先を示唆する。

「忍が主の命に歯向かえる訳ないけど?」
「命令すれば、見せてくれるのか」
「見ても面白いものでもないよ?」
「何故だ?某は佐助ならば…」
「俺の身体なんて、汚いよ?」

 ――どうする?

 佐助の瞳はじっと幸村に向ってきていた。
 今までの彼の習性を、佐助自身が打ちくだいてくれる。そんな期待に、どきどきと胸が高鳴った。全ての主導権は今、幸村にあるのだ。
 幸村は、ごくりと咽喉を鳴らすと「見せてくれ」と言った。










 ばさ、と一枚ずつ服が剥ぎ取られていく。その様子をじっと見つめているだけで、胸が滾って仕方なかった。
 動く仕草ひとつひとつに瞳を奪われてしまう。節ばった指先、浮き出た骨、引き締まった身体――筋肉が動くたびに浮き出る姿は圧巻だった。
 思わず溜息が漏れそうになる。時々佐助が此方を見て、くす、と鼻先で笑ってくる。

「さて、あと一枚で真っ裸なんだけど?」

 ――どこまで脱げば良い?

 くすくす、と佐助が笑って正面に座り込む。その言葉にハッとして、幸村は目をぱちぱちと動かした。

「そ、其処までで…ッ」
「ざーんねん」

 あはは、と笑う佐助とは対照的に、どきどきと胸が鳴って忙しない。ちらちらと見たり、じっと見たりを繰り返していくうちに、ふと幸村の視線が止まった。
 そ、と手を動かして、佐助の腹部に当てる。

「――傷……」
「まぁね、これくらいはあるさ」

 手の平には隆起した感触がある――そうとう深い傷であったことを示していた。間近で見ていると、もっと小さな傷も沢山彼の身体には刻まれていた。その多さに言葉を失いかける。

「無数に…こんなに…――」

 腹部から、大腿部、ぺちぺちと佐助の身体を触り、背中を向かせる。背中にはもっと沢山の傷跡がびっしりとあった。
 つつ、と指先でその痕を辿って、言葉をなくしていると、深い溜息を付きながら佐助が肩越しに振り返る。

「幻滅したでしょ?だから俺の身体なんて面白くも無いよって、言ったじゃない?」
「佐助……」

 ふと目の端にあった肩の傷に、目を奪われる。薄く、もうその痕さえも定かではないが、思わず其処に触れた。

「これは?」
「ああ、これは弁丸様が木から落ちたのを助けた時の」

 自分の幼名で言われ、ハッとする。幼い頃、木から落ちた――その時、受け止めてくれたのは佐助に他ならなかった。その時、折れた枝と一緒に自分を助け、その肩越しが紅く染まっていたのを覚えている。いわば自分がつけた傷のようなものだ。
 幸村がそっとその傷に口づけると、擽ったそうに佐助は笑った。

「某を助けた時の傷か……」

 こくり、と頷く佐助の背にある傷を、もう一つとなぞる。

「これは?」
「うーん…アレかな?まだ忍里に居たときの修行の痕かな」
「これは?」
「戦の。まだ俺が下っ端だった時に、ちょっとドジってね」

 一つ一つの傷をなぞっても、しっかりと彼はその傷を覚えている。傷を自身に深く刻み込んでいるかようだった。

「忍はさぁ、傷があっても良いんだよ。武士じゃあるまいし。傷が出来たってね、ちゃんと生きて、仕事を全うできればいいの」
「――佐助…」
「何処が欠けたって、主命にそぐわなければ」

 何かを押し殺すようにして話す佐助の首筋に、両手を絡ませる。そして後からぎゅっと抱きしめると、彼の背中に頬を寄せた。そうしているだけで、彼の鼓動が聞こえる。

「佐助…――」
「何、旦那?」
「この傷、一つ一つが佐助の歩んできた道なのだな」
「そんな大層なもんじゃないよ」

 佐助の声を、鼓動越しに訊く。響く音に瞼を下ろし、じっと聞き込んだ。そうして抱きしめている腕に、佐助の手が触れてくる。

「御主が傷つくたび、某は守られていたんだな」
「――――……」

 触れた手を、指を絡める。振りかえってきた佐助を正面から抱きしめる。肩口に顎を乗せて、甘えるように耳朶に囁きかける。

「愛しい傷だ」
「――擽ったいね」

 ふふふ、と佐助は笑い続ける。その笑顔の下に、別の顔がある――そんな考えは吹き飛んでしまう。彼の身体の傷、そして今触れているところの熱さだけで、思われていることを感じられる。
 近づいてくる顔を包み込み、深く口付けながら幸村は小さく「愛しい」と繰り返した。






 遠く揺らめいていた愛を、この手に手繰り寄せた気がした。











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