Kiss in the rain





 雨の中にじっと佇んでいる姿があった。
 庭先で、雨の中の地べたに正座したまま微動だにしない。じっと頭を邸の方へと向け、ただ座り続ける姿はどう見ても石像にでもなってしまったかのようだった。
 肩は徐々に濡れて――いや、すでに濡れ鼠と化しており、紅いはずの服は其の色を重く、濃く変色させていた。
 濡れてしまった髪は、しっとりと肌に、肩に、滑らかさをもって背中に垂れている。其れを見つめながら声を掛けずにいる自分もどうかと思う。

 ――でもあれは全てを拒絶している背中だ。

 ここで軽く声をかけたとしても、一蹴されてしまうだろう。それが解っていながら声を掛けることは躊躇われた。

 ――何があったんだろうねぇ。

 同じように木の幹に腰を掛けながら雨に濡れている自分もどうかと思う。佐助はそれでもじっとその背中を見つめた。

 ――まぁ、俺様は忍だから?

 だから雨に濡れることは厭わない。だがあの人はどうだろうか。このままずっと座り続けたら、身体を壊してしまうのではないだろうか。

 ――いくら鍛えていたってねぇ…

 雨は体温を奪っていく。その証拠に吐き出す息が、春先だというのに、仄かに白く見えてしまう程だ。

 ――放っておけないんだよね。

 強情なのは解っている。だがもう耐えている気にもならなかった。佐助はそっと木から飛び降りると彼の後ろに歩を進めた。
 彼の真後ろに来てから、そっと気配を顕わにする。
 ざざ、と雨が足元に現実感を持って跳ね返ってくる。そらを見上げれば曇天で、そこからしきりに冷たい雨が降ってきていた。
 そして背中越しに彼の息が、ほ、ほ、と白くなっていた。

「旦那、何やっているの」
「――……ッ」

 少しだけ彼の気配が揺れた。だが此方を見ることはしない。まだ頭を邸の方へと向けたままだった。

「そんなとこに座ってたら、風邪、ひいちゃうよ?」
「――……」
「ねぇ、聴こえているんでしょう?」

 問いかけに反応する気配もない。ただ話している自分がだんだんと空しくなってくる。目の前には――手の届く場所に彼がいるというのに、どうして一人で話しているのだろうか。そう思うと、どうしても切なくなってくる。彼の背中はまだ拒絶を表しているかのように微動だにしない。
 佐助は膝を折って、彼の背中間近に近づいた。屈みこみながら、くしゃりと自分の髪を掻き込む。

「ここで反省しろ、と言われたのだ」
「お屋形様に?何でまた…」
「某の思慮が浅いせいだ。だから此処で反省している。某に構うことはござらん」
「もう…良いんじゃない?」

 義理堅く座り続ける幸村に、軽く促した。だがそれを一蹴するかのように、抑揚のない声が返ってくる。

「放っておいてくれ」
「だってもう一刻以上、そのままだよ?」
「――放っておけ」

 諭すように幸村に言い募っても、彼は全て「構うな」と言い捨ててしまう。何がそこまで彼を追い込んでいるのか解らない。
 彼の中の絶対の存在である信玄公のされる事に口を出すことは出来ない。だが、それでも、冷たい雨の中にこれ以上彼を置いて置けなかった。
 佐助は、解った、と言いながら膝を伸ばして立ち上がる。

「そんな事、出来るわけないでしょう?俺がお屋形様に言って…」
「余計なことを致すなッ」

 びしゃり、と幸村の怒声が響いた。彼の透き通る声が、びぃん、と耳朶に響いた。

「――じゃあ、どうしたら……」

 幸村のつむじを上から見下ろしながら、強情さにどうしたら良いのか解らなくなって来た。

 ――だったらもう、どんな事も聞き入られない。俺に出来るのは?

 駆け巡る思考はどんどん鈍くなってくる。
 戦場に在れば経験と、知識でどうにでもなることが、今のこの場ではどうしようも出来ない。
 手も足も出ない――忍の自分でも、読みきれない。
 なす術がなくなれば、後はただ祈るしかない。息を吸い込むと佐助は、目の前の幸村に哀願するように声を絞り出した。

「お願いだからさ……もう、止めようよ?」
「――……」
「ねぇ、お願いだから……――」

 ――ばしゃん。

 着いた膝が雨水を弾いて、軽く跳ねた。
 膝を寄せて傍に行き、後から腕を回した。びく、と揺れる身体を後から掻き抱いて、首元に指先を絡ませる。
 ひやりと冷たくなった身体が、まるで氷のようでぞっとしてしまう。そして彼の頭を自分の胸に引き寄せて、覆いこむように抱きしめた。

「佐助……ッ」
「旦那が濡れ続けるなら、俺が…俺が旦那を雨から守ってやるから」
「御主には関係なかろう」
「関係あるよ。俺はどんな雨からでも、旦那を守るよ。旦那の被ったものはこの佐助が全て請け負うよ」
「どうして……――」
「理由なんて、いいじゃない」

 ――俺が、そうしたいだけ。

 こく、と咽喉が鳴るのを指先で感じた。そして彼の肩が吐き出した溜息で揺れる。そっと回した腕に彼の指先が触れてくる。

「某が此処にいるせいで、佐助を雨に晒すのなら…仕方ないか」
「俺のせいにしていいよ。俺が攫ってあげる」
「――某の根負けだ」

 ゆっくりと振り返った幸村の表情が、次第に緊張感を解いていく。間近に――息の触れ合う場所にある彼の鼻先が、つん、と冷たくなっている。

「佐助……――」
「何も、言わないで」

 身じろぎしようとした彼の肩を押さえ込んで、首筋に添えていた手を頬に回して、その唇に吸い付く。

 ――ひやり。

 冷たくなった唇に、熱を戻そうとするかのように、深く口付けながら、強く幸村の身体を抱きしめていった。
 幸村から佐助の背に腕が回ることはなくても、ただ自分の懐に収めて、あらゆるものから守ってやりたいと願った。










 どれほど雨の中に居たのかは定かではない。随分と冷え切った身体は中々温まることはなかった。心なしか幸村の顔色も青ざめている。
 外から打ち込んでくる雨音は次第に音を激しくしていく。
 雨音に共感するように、ゆらゆらと灯りも揺れている。その傍らで濡れてしまった衣服を剥ぎ取り、乾いた手ぬぐいで拭っていく。
 しっとりとした肌は乾いた布では滑りが悪い。それに加えて、長い髪からは、つ、つ、と幾筋も雨だれが流れてきていた。

「旦那、まだ寒い?」
「……――」
「正直に言っていいよぅ?」

 いつもの元気の良さが嘘のように、彼は沈黙を作っていく。それがあまりにも似あわ無すぎて泣けてくる。まるで捨てられた子犬のようにしか見えない。

 ――捨てられて、雨に打たれて、啼くだけの力もなくて。

 そんなのはどう見ても惨めでしかない。

 ――だけど、俺はどんな姿でも。

 その気持ちを偽るつもりなどない。それを彼にもっと解って欲しくて仕方ないが、理解しろという訳にも行かない。だから当たり前の――日常会話を繰り返すだけで終ってしまう。

「寒いなら、言っていいよ?」
「寒い……」
「そうだよね。ねぇ、俺がさ…温めてあげるって言ったらどうする?」

 幸村の背に流れる雫を拭いながら言うと、びく、と身体が揺れた。そのまま半歩、足を浮かせかける彼の腰に、腕を回して引き寄せる。

「駄目、逃がさない」
「あ…――っ」

 ――ぐっ。

 強く両腕で彼を引き寄せて、手のひらを彼の腹に這わせる。其の度に面白いくらいに、びくり、びくりと幸村の身体が揺れていく。

「ねぇ、どうする?」

 ――べろ。

 腰の窪みに舌を突き出し、ゆっくりと背中に向って舐める。つつ、と腹に添えた手を動かし、胸元に這わせていく。

「や…っ、――っ」

 流石にその刺激には耐えられなかったのか、甘い声が漏れた。そして、それと同時に膝が、がくりと崩れおちてくる。畳みに腰を下ろした状態の幸村が顔を両手で覆った。

「旦那?」

 ふるふる、と細かく震える肩に、やりすぎたか、と慌てる。だが此処で逃げられても厭なので、がっちりと腕は外さずにいると、ずるずると背中を佐助のほうへと押し付けてくる。

「だ、旦那?どうしたの……」
「佐助……――御主は」
「うん?」

 指の間から、ちらり、と幸村の瞳が佐助を見上げる。だが直ぐにまたそれが翳った。

「ねぇ、どうしたっていうの?」

 優しく問いかける。すると今度は再び幸村の身体がずるずると雪崩れ込み、佐助の膝に寄りかかるようになっていく。
 仰向けの――顔を隠している幸村の手を、腰に回した腕を解いて、ゆっくりと外す。そして目を閉じたままの彼の唇に、上から再び口付けた。

「ねぇ、どうしてほしい?」
「――……言わせないで、下され」
「あはは、何畏まってるの」

 紅く――先ほどの青白くなっていた顔色とは打って変わって、紅潮していく彼の顔色に安堵する。

「言わせたいなぁ…――でも、言ってくれなくてもいいよ」
「佐助……――」
「大丈夫。俺は旦那をちゃんと解っているから」

 ね、と同意を求めるように笑いかけると、幸村の口元がほんのりと微笑んでいった。そしてそのまま、沈み込むように、濡れた髪を指に絡ませていった。










 ――かたん。

 軽やかな戸の開く音で目を覚ました。
 すると上半身裸のままの、佐助の背中があった。雨はもう上がったようで、外には朝日が差し込んでいた。
 目を瞬いて見つめていると、おはようございます、と彼から声が返ってくる。

「旦那ぁ、もうちょっと寝てていいですよ」
「そういう訳には……」

 急いでおきようとすると、ぎし、と腰に鈍痛が走った。思わず呻いて立ち上がれずにいると、あははは、と軽やかな声が返ってくる。

「あんまり無理しないで」
「何をいうか、佐助のせいではないか」
「うん。全部、俺のせいでいいからさ」

 ――だから、休んで。

 甘く言われて再び身体を沈ませた。だが、そのままズルズルと這って行くと、ナメクジみたい、と佐助が笑う。その背中にはいくつもの傷跡があった。
 それを視界に納めながら、そっと昨日彼がしてくれたように腕を回す。

「どうしたの、今度は甘えっこかい?」
「佐助、某の傍を離れないでくれ」
「離れないよ。たとえ、この四肢が千切れ飛んだとしても」
「佐助……――」
「大丈夫、俺は忍だから。旦那の手足になるから」

 安心して、と優しい声が続く。絡ませた指先に降る、佐助の口付けを感じ、目を伏せる。そして頸の付け根にそっと口付けて、抱きしめていった。












 ――忍を捨てきれずに、自らが危険をこうむってどうする。

 戦場での出来事を指摘された。

 ――あれは、忍。

 諭されても、厭だと首を振ることは出来なかった。
 それを浅はかだと言われても、彼だけは特別だと――戦場でそれを知ってしまった。戦いあって求める相手とは違う、別の感情。
 いくら雨に打たれても、自問しても答えを覆せなかった。

「佐助……某の傍を離れないでくれ」

 ようやく言えたのはそんな言葉だった。それでも彼は優しくそれに応じてくれた。

 ――いつか、危険に晒すことになろうとも。

 守れないのなら、せめて最後まで共に。










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