霧雨 夜露も乾かない道を歩いていくと、朝靄の中から一軒の家屋が見えた。其処に向かいながら、幸村はゆっくりと草を踏みしめていく。この夜の間は信玄の居所が知れなかった――それを不思議に想いながら領地を駆けずり回り、ふとこの家屋に立ち至ったという訳だった。 其処は以前、狩猟の際に共をした折、立ち寄った家屋だった。 人気はまったくない場所だと思っていたが、万が一にも誰かがすでに住まっていては、驚かせてしまうだろう。 そう思うと、次第に脚はゆっくりとした動きになっていった。 ――かたり。 不意に前方の家屋の戸が開く。そして見知った人物がその中から現れた。 ――やはり、此方においでだったか。 心躍るのを押さえ込み、息を吸い込むと前に出ようとした。だが即座に脚を止めてしまう。彼はくるりと戸から迂回して、縁側にいくと、わざわざ縁側に向いている障子を開けた。 「佐助、お前は四半刻ほど遅れて来い」 「はいはい…っと」 「幸村に知れては後々厄介だからな」 「お屋形様でも、お気になさるんで?」 中から聞き知った声が響く。身を乗りだして視界に納めた相手を見て、言葉を失った。 其処には、肩に着物を羽織っただけの佐助が居た。 いつもは上に立ち上がっている赤茶色の髪が、くしゃくしゃに乱れている。 その意味を知るまでもない――信玄の手が、そっと佐助に伸びると、髪を掴み込んで上に向けさせた。 「勿論、気にする。それがどうした?」 「いいえ…――なんでも」 「そういうお前こそ、気にするだろう?」 「…何のことですかね?」 ふい、と佐助が顔を背けていく。興味をなくしたかのように大きな手が、髪から離れると、背を向けていこうとする。 「ああ、お屋形様」 「なんだ?」 「また…――お相手してくださいよ」 「考えておこう」 それだけ言うと、彼は朝もやの中に紛れていった。 夜露が、ぽたり、と肩に落ちてくる。それでも茂みの中から動くことが出来なかった。 信用する二人に、裏切られたような気がしていた。 だが、肩に羽織をかけただけの佐助は、深い溜息をつくと、項垂れながら小さく笑った――笑って、そして聞き取れるか聞き取れないかの、ほんの少しの声で幸村の名を囁いた。 2007/03/18(Sun) プラトニック? |