RING PANIC





 よろよろとしながら今日はもう帰ろうとロビーに足を向けた。年末が近づくに連れて、前倒しの仕事の多さにいつもながら辟易とする。
 1日酷使した目が、じんわりとしてくる。佐助は目元を指先で押さえて、ふう、と深い溜息をついた。その為か、佐助はここ数日はずっと電車通勤に切り替えていた。

「佐助殿ぉ、少し休まれてから帰っては?」
「ん?大丈夫…大丈夫だよ、旦那」

 後ろのリュックの中から、花の精の幸村が顔を出していた。ぴた、と背中に触れる彼の手の感触に、リュックから這い出てきているのが解る。
 満員電車は流石に危ないので、後ろのリュックに入ってもらって、電車に乗ると網棚に乗せてしまう。
 人混みに揺られていると、それを網棚から見下ろして幸村は、はらはらとしている時がある――だが、そのはらはらしている表情を見上げているのも楽しい。

 ――表情豊かなんだもん。

 佐助は今朝のことを思い出して、ふふふ、と口の中で思い出し笑いをした。
 すると下に向けた視界に、靴の紐が見える――今日はブーツを履いているが、その紐がはらりと解けていた。

「あ〜あ…」

 その場に佐助がしゃがみ込むと、ふぎゃあ、と肩口から幸村の叫ぶ声が聞こえる。

 ――ころろん。

 しゃがみこんで紐にかける側に、幸村がころんと転がりこんできた。そのまま、ころころ、と転がり、ある程度来ると腹ばいに停まる。そして、のそりと起き上がると、佐助の方へと向かって、ととと、と駆け込んできた。
 しゅる、と佐助が器用に靴紐を結ぶのを見つめ、ふおおお、と感嘆の声を張り上げる。どんぐりのような大きな瞳がくりくりと動いて、手元と佐助を交互に見比べていた。

「どうしたの、旦那。靴紐が珍しい?」
「くるくると動いて…某、目が回りそうでござる」
「ははは、それを言うならいつもの旦那の方が目まぐるしいよ」

 ――がさがさ。

 佐助が靴紐を結び終えて、幸村に手を差し出す。すると幸村は迷うことなく佐助の手に乗り上げると、ちょこんと其処に座った。

 ――がさがさ。

 手に幸村を乗せて立ち上がると、リュックを抱え上げていく。

「おい、佐助」

 がさがさ、と大きな音を立てて目の前に長曾我部元親が立ち止まる。片腕にはビニール袋、そして片手にはカートを持っている。疲れ果てた顔で、ネクタイの端を胸ポケットに突き入れていた。そして、彼のカートの上には元就がちょことんと座って、涼しい顔をしていた。

「あ、お帰りなさい…元親主任」
「お前、今暇か?」

 ぐ、と元親が詰め寄る。少しだけ手に抱えていた幸村と視線を合わせてから、こくりと頷いた。

「え?ええ…帰るところですし」
「だったら此れ持って」

 ――がさ。

 ずい、と前に突き出されたのはビニル袋だ。しかも其処から、出来立ての甘い香りが漂ってきている。袋の中を思わず覗きこんでしまう。

「うわ、なにこの甘い匂いッ」
「上、片倉さんしかいねぇよな?」

 すたすたと元親はエレベーターへと向かっていった。

「あ〜、そうですね。もう殆ど出払ってて」

 佐助が手に渡された袋を持って追いつく。今来た道を再び戻ることになるが、今の元親に逆らう気はない――疲れている様相に、口答えはやめておこうと思う。

「じゃあ、お前もそれ食ってけ」
「――どうしたんですか、これ?」

 チン、と軽やかな音を立ててエレベーターのドアが開く。中に入ると元親は壁に寄り掛かって、はあ、と溜息をついた。

「魔がさした。あと、元就が食いたいって言ったから」
「…疲れてるんですね?」
「当たり前だ、こちとら出張帰りだってのッ!」

 ぐわ、と叫ぶ元親に「はいはい」と相槌を打ちつつ、佐助は自分たちの部署へのボタンを押していった。










「で?どうしてドーナツなんだ?」

 案の定、既に小十郎しかいなくなっていたフロアに、がたがたと椅子を引き寄せて座る。目の前に広げてみると、結構な数のドーナツが並んだ。

「駅前で100円セールやってたんですよ。あんまり腹減ってて、ついつい買いすぎて」
「ついついでケーキまで買うのか、お前は」
「これは元就用です」

 がさがさ、と音を立てて中を覗きこむ小十郎は、調度佐助たちが上がってきた時に仕事を終えたばかりで、今帰ろうとしていたところだ、と言っていた。
 佐助がマグカップを三つ持って戻ってくる――インスタントでいいからと、コーヒーが三つ其処に並んだ。
 かたん、と椅子に座りながら佐助が、箱の中身を――三匹は頭を寄せ合って覗きこんでいる――幸村に問いかけてみた。

「旦那、どれ食べる?」
「某、そのピンクのが食べたいでござるッ」
「ストロベリーね。はい」

 くる、と葡萄のような大きな瞳を輝かせて幸村が振り仰ぐ。それを見て、佐助が箱のなかからピンク色のチョコの掛かったドーナツを一つ取り出す。そしてそれを皿の上に乗せて幸村の前に差し出す。
 あわせて佐助は自分用に、中に生クリームの入っているドーナツを取り上げると、ぱくりと噛み付いた。
 幸村は目の前の大きな円形のドーナツを前に、どう攻略しようかと思案して、とりゃ、と掛け声をかけて手を突っ込んだ。

 ――ふわ。

 ふんわりとチョコの処と生地が剥がれていく。それを口に運んで、もふもふ、と幸村は嬉しそうに頬張っていく。更にと手をかけて、幸村が取り出そうとした瞬間、重みで中のクリームがもったりと飛び出してきた。

 ――ぶに。

 べた、と思い切り腕をクリームの中に突っ込んでしまった幸村は、そのままバランスを崩して頭からクリームの中に突っ込んだ。

「ふおおおお、中からクリームがぁぁぁッ」
「わああ、ちょ、大丈夫?」
「だ…大丈夫でござるぅ…うう、べたべたする」

 べた、と顔中をピンク色に染めて幸村がのっそりと起き上がる。顔の前面がクリームで覆われてのっぺらぼうだ――佐助はそれを見て指をさして笑い出していく。

「あはははは、旦那クリームだらけッ」
「む…」

 ぺろぺろと顔についたクリームを舐め取りながら、幸村がその場にピンク色のクリームを落としていく。
 因みに政宗と元就は、幸村がクリームに落ちた段階で、ぴゅうと彼から離れていた。こういう時は本当に素早い。
 元親の腕に手を乗せて、元就が幸村たちを見つめていると、元親はのそりと手を伸ばして抹茶の付いたドーナツを取り上げた。そのドーナツが頭上に動くのを元就は瞳を光らせて見上げていた。

「元就はこれだよな、ポン・○・リング」
「うむ、早うそれを寄越すがいい」
「ほらよ」

 ――つる…ッ

 皿の上に乗せようとした元親の手が滑る。ドーナツがひらりと落ちていく。

「あ…っ」

 ――すぽ。

 受け止めようとした元親の手が止まった。それもその筈で、その瞬間、回りに居た小十郎も佐助も、幸村も政宗も言葉を失った。
 なぜなら、宙を舞ったドーナツは、見事に元就の腰に嵌っているのだ。

「…………」

 元就が首を動かして、自分の腹にひっかかっているドーナツを見下ろす。ぶわり、と彼から怒りのオーラが出そうになっていたが、その空気を突き破ったのは元親だった。

「ぶはははははははははっ!」

 盛大に笑い出し、ばんばん、とテーブルを叩き込む。その横で瞳を輝かせて佐助が乗り出す。腰に緑色の抹茶のドーナツを嵌めた姿が愛らしく見えたのだろう。

「ちょ、元就かわいいッ!」
「く…くくく」

 小十郎は口元に手を宛がって、肩を戦慄かせていた。声にならないらしい。
 元就は一様に皆の様子を見回してから、じとり、と下から元親を睨み付けた。

「――元親、貴様…」

 ひーひー、と腹を抱えて背を丸めながら笑う元親に、じとりと元就は低く恨み言を述べるかのように呼びかける。だがそんな不穏な空気に、政宗が彼に駆け寄って止めようとした。

「Hey,元就、、気にすんな…」
「ふんッ」

 ――ばしっ

 くるん、と振り返った元就のドーナツに政宗が弾かれる。「OH!」と声を上げて仰向けに政宗は、ころころ、と転がった。

「元就殿…ッ」

 ――ばしッ

 同じように近づいた幸村もまた、弾き飛ばされて、ころころと転がる。ころころ転がりながら、政宗にぶつかってとまると二人はよろけながら起き上がった。

「うう、鉄壁過ぎて近寄れぬ…」
「手強いぜ…」

 転がりすぎて眼を回す幸村と政宗を横目に、元就は自分の腰に引っかかっているドーナツに手を添えると、勢いよく引きちぎった。

「――フンッ」

 ――ぶち。

 一つの玉が解けてもまだ腰にはドーナツが引っかかっている。元就はそれを無言で、もふもふと咀嚼していった。

「でもさ、こういうキャラクター居たよね。なんか猫?だったっけ、それがドーナツに嵌ってるの」

 まだ少し笑いを含みながら、佐助はチョコレートの掛かったドーナツをつまみあげて、ぱくり、と食べながら言った。その横で元親もまた同じものを取り上げて、ばくん、と口に放り込む。

「あー、見たことあるような」

 彼らに構わずに、小十郎は小さな丸いドーナツが入った箱を取り出し、政宗を呼ぶ。

「――政宗、お前これ食うか?」
「食べるッ!」

 たたた、と政宗が駆け寄って小十郎の手元のドーナツを両手に持ち上げる。そして、かりかりと齧っていった。
 まだ元就は不穏な顔つきで抹茶のドーナツを頬張っている。ふと見るといつの間にか幸村も皿のところに戻ってきて、先程のドーナツの攻略に掛かっていた。

「だぁんな、付いてるよ」
「うぐ?」

 振り仰ぐ顔に、髪に、ぺたりとピンク色のクリームが付いている。佐助は指を伸ばすと、幸村の頬に指先を触れさせた。

「ほら、ここ」
「――――…ッ」

 ふに、と柔らかい幸村の頬が佐助の指の動きに伴って、ふにゃり、と動く。指先に拭い取ったクリームを佐助はそのまま、ぺろ、と舐めた。

「あ、ストロベリー美味しいね」

 ――半分頂戴。

 一連の動作を見上げながら、幸村がふるふると震えて真っ赤になって行く。そして、きゃあ、と小さな両手で顔を覆ってしまった。

「破廉恥でござるぞぉぉぉぉぉぉ」
「何を今更」

 佐助はしれっとして、幸村の皿の上のドーナツの四分の一を、ぶちり、と千切ると、ぱくりと食べてしまった。だがその間にも幸村は「うおおおお」と叫びながら転がっている。
 元親がビニール袋の一つを手にして、中からビールを取り出す。こういう所は用意周到と言える。更にもう一つあった箱を取り出す。

「ドーナツはそれくらいにして、こっち開けますよ。あ、片倉さん、ビール」
「おう…って、今日俺は酒は駄目だ。車だから」

 ――ついでにお前ら送ってやる。

 小十郎はマグカップの中にあるコーヒーを傾けながら、元親の差し出したビールをそのまま佐助に渡した。

「ほんとに?わぁい!じゃあ、俺様飲んじゃおうッ」
「佐助っていつも発泡酒?」

 ぷし、と音を立ててプルタブを空けて、うまい、と漏らす佐助に、元親は指先を向けて問いかけた。

「――ぶッ、何で知ってるんですかッ」
「幸村が言ってた。酒ってどんな味〜?て、花期の時に聞いてきたぞ」

 銘柄を聞いたら発泡酒だった――という落ちらしい。だがそんな事を元親に聞くなら、どうして自分に聞いてくれなかったのか。聞いてくれたら一緒に呑んだかもしれないのに、と恨めしく思いながら、次のドーナツを物色し始めていた幸村に聞く。

「旦那…どうして俺様に直接言わないの?」
「う…だ、だって……」

 ふああ、と紅くなりながら幸村はドーナツの箱に手をかけたままで俯く。応えを誤魔化すように黙り込む幸村を他所に、小十郎が箱を空けて呆れた声を上げた。

「おい、長曾我部」
「はい?」
「これ、何で…何でバースデーケーキ?」

 佐助もまた箱の中身を覗き込んだ。すると其処には、上を綺麗に焼かれたシブーストのケーキが入っている。更にその上には木苺とチョコレートのデコレーション、そして「Happy Birthday」と描かれたチョコプレートが乗っている。

「元就が食いたいって言ったのがそれだったんで」

 しれっと元親が言うと、小十郎は「はあああ」と大きな溜息を付いた。

「お前、甘やかしすぎだろ」
「そんな事ないですよ」

 何だかんだ言っても甘いと思う。佐助もまた小十郎の横で「甘いですって」と念を押す。小十郎がケーキを切り分けている間、政宗はケーキと小十郎を交互に見つめていた。
 この三匹の中ではあまり食欲に燃えないのが政宗だ。そしてその奥で元就が別のドーナツに着手し始め、更に箱の中に入り込んで幸村が生クリームの入ったドーナツに挑み始めていた。
 佐助が箱の中から幸村の首根っこを掴んで、ぷらん、と持ち上げる。そして彼の挑み始めていたドーナツも皿に取り分ける。既に半分になっているドーナツのクリームは、幸村の顔にも、手にもべたべたと付いていた。佐助はそのまま彼を皿の側に下ろすと、ビールの缶を傾けた。

「あ〜…なんか、クリーム塗れの旦那って…」
「うん?」

 隣で元親がドーナツとビールを交互に流し込みながら、とりあえず頷いてくる。それに気付きながら、佐助はうっとりと云った。

「破廉恥通り越して、猥褻物だよねぇ…」
「そう思うお前の頭が猥褻だ」

 ばし、と後頭部に元親の平手が落ちてくる。痛い、と佐助がつんのめると、小十郎は目の前にケーキを差し出してくれた。だが佐助はそのままテーブルに頬を付けて、幸村と同じくらいの目線で呼びかけた。

「旦那ぁ…」
「にゃんでござるか?」

 近くで幸村が生クリームに塗れて小首を傾げる。

「今度、クリームプレイしようか?」
「ふぎゃッッッ?」

 ぼろ、と手に持っていたドーナツを幸村は取り落とした。背後から元親が「お前ら、そんな事してんの?」と突っ込みを入れたが、幸村の「破廉恥なぁ――――ッ」という絶叫に全て掻き消されていった。











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恐惶謹言 無料配布コピー本から。
柴乃さんお誕生日進呈本でした〜。