花散る宵も ――ひと目見て、奪われて。 主は足しげく遊里に出入りをしている。その日もいつものように番頭である佐助に全てを任せて花街に繰り出していった。しかし彼はあろう事か財布を忘れており、これはいけないツケで支払うにしても格好がつかない、と佐助は大旦那の財布を握り締めて花街へと足を向けて行った。 入り口で事情を説明して中に入り、周りの賑やかさや、格子からのびる白い手に驚きながら、主の通う店に一目散で駆け込んでいった。 そして通された部屋で、主はとある花魁と宴会を開いている最中だった。 「おお、佐助来たか、来たか」 「大将〜、勘弁してくださいよ」 息せき切って来てみればすでに主である武田信玄はすっかりと出来上がっており、従者に着けた者達の財布の中身で此処にきたという――しかもそれを花魁の膝枕で語るのだから、どうしようかと佐助は頭を抱えた。 「あい済みませぬ、当店の主がとんだ粗相を」 気になって佐助が頭をさげると、花魁は首をかるく――緩やかに振って見せた。 「いいえ、気になさらず。わっちとて、この大将に世話になっている身でござんすから」 「世話…」 「わっちを知りませぬか」 申し訳ない、存じ上げておらず、とぺこぺこと低頭する合間にも、信玄は鼾を掻き始めてしまった。すると花魁は自分の禿を呼びつけ、信玄を隣の部屋へと移した。 部屋に残るのは佐助と花魁のみだ――こんな場所には来たこともなかった佐助は落ち着かずに、もぞもぞと正座を動かした。すると彼女は流れるような声をして、楽に、と告げてくる。 「本来ならば、慣わしとして、わっちと話すことさえ、貴方様は出来ませぬが」 「そ、そうなのですか…」 「一度目は振らねばなりませぬ故」 ころころと嗤う彼女の薄い唇が、赤く灯りに映えていた。そして声を潜めて彼女は告げる。 「わっちの水揚げから、武田の大将には贔屓にしてもらっておりんす。他の客は一切とらぬ、その代わり、本当に恋しいと願う相手が出来れば落籍してやると…」 「え…」 「ほんに…優しいお方でござんす。お陰でわっちは、この身体を開かれてはおりませぬ」 「それで花魁って…」 「それがまた面白く、物珍しく、人にはうつるんでありんしょう」 ころころと嗤う彼女の口元が、すい、と動いた。そしてその時初めて、佐助は彼女の顔を見ていなかったことに気付いた――落ちてきた影、それに顔を起して、間近にある白い面に、はっきりとした目鼻立ち――なんて美しい、と思った瞬間に彼女は佐助の前に膝を立てて、ぱしん、と扇を鳴らした。 「いかがでござんす、わっちを買ってみませぬか」 「は…――え?」 花魁の真剣な目に、佐助はただ咽喉を鳴らすだけだった。そして動けずにいる佐助に、彼女は静かに毒を落とすようにして囁いていく。 ――どうか、情けを。 それが何を意味するのか解って、佐助は彼女から慌てて身体を反らした。すると諦めたように花魁は身を引いて立ち上がり、悲しそうな瞳でこちらを観てきていた。 「一夜の恋も、叶わぬものでござんすなぁ…」 ――ぱたん。 静かに締められた襖ごしに、佐助はようやく胸を撫で下ろした。そしてふと、彼女の消えた襖の下に、小さな染みを見つけて鼓動が早くなった。 「夢、じゃないのか…」 それは確かに彼女の涙だった。佐助はただ熱くなっていく頬に、膝を抱えてその場でごろんと転がっていくしか出来なかった。 100905/120416 up 遊郭ネタふたつめ |