鳳仙花



 何が切っ掛けだったかなんて覚えていない。
 ほんのりと彼を意識し始めたのは、春まだ浅い頃だった。硬い桜の蕾を見上げる横顔を眺めながら、いつものように他愛ない話をして、横で微笑む彼に見惚れた。

 ――男、なんだな。

 女である自分との違いは今までいやというほど観てきたのに、そう思った瞬間、彼を直視できなくなって、手元だけを見つめていった。
 それから時々、そんな思いに駆られる――そうした時は頭が真っ白になって、何を言ったらいいのか解らないほどに、気まずい時間が流れてしまう。
 だが、悲しいかな――それは本当に時々のことで、普段はまったく気にもしていない。
 それなのに、ふとしたこんな時に思い出してしまうのだ。
 夏の日差しを一杯に浴びている縁側に、足を外に投げだして座っている佐助が、目の前に幸村の背格好と変わらない穴山小助と向かい合っている。

「さす…――っ」

 何処に行ったのかと彼を探していた最中だった幸村は、声を掛けかけてやめた。
 幸村の視界に映る佐助は、流れるような動きで左手を小助の顎先に向ける。すると小助はそのまま顔を仰のかせていく――そして、さらり、と紅筆を向けて、小助に化粧を施していく。

 ――真剣な顔。

 戦場の緊迫した表情とは違う、表情を乗せない彼の素顔が、じっと小助の顔に向う。

 ――かたん。

 小首を傾げて佐助は小助をまじまじと見つめてから、横に置いてあった化粧箱から、乳鉢を取り出すと、別の筆でその中の汁を取り、そっと小助の手をとった。

 ――ひらり、ひらり。

 筆が翻る。その動きを瞬きを忘れて見つめていると、佐助は彼の指先に色を乗せた。
真剣な佐助の面――佐助の眦に、さらりと一本の影が出来ていた。それが彼の睫毛だと気付くと触ってみたくなった。

 ――睫毛、長いなぁ。

 幸村はすっかり彼らのやりとりを見つめてしまっていた。それと同時に胸元がなにやらもやもやとしてきてしまう。
 小助の後姿は、幸村そっくりだ――それもその筈で、小助と云う少年は幸村と瓜二つだったりする。相手が少年と云うのがいささか不甲斐ないような気もするが、それよりも今は彼に構う佐助に、胸元が焦がされていくようだった。

 ――ぎゅ。

 幸村は知らず袖口を握りこんだ。すると、小助の指を手に取りながら、くすり、と彼が笑った。

「旦那ぁ、突っ立ってないで、こっち来たら?」
「ぬ…――ッ、いつから気付いて」
「最初から」

 いい様に佐助が顔を上げる。そして日差しを受けながら、佐助は微笑んでくる――彼が笑顔を見せてくれるのは、幸村にだけだ。
 幸村は気まずい思いを抱えながらも、ととと、と歩み寄って小助と佐助の間に座り込んだ。すると小助は今まさに化粧を終えたという顔で、ほんのりと頬まで染めて幸村に顔を向けてきた。

「幸村様、幸村様、どうですか?俺、女の子に化けれてます?」
「ああ…いや、凄いな。女子そのものだ」
「っていうか、小助。お前がもともと女顔なんだって」
「長がやったらガタイの良さで男だって見抜かれちゃいますもんね」

 手元を佐助に向けたままで小助が、べえ、と舌先をむける。幸村の視界の中には、もう一人の自分が佐助に化粧を施されているかのように見えており、まじまじと眺めてしまっていた。すると佐助は小助の言葉を一蹴した。

「そうでもないよ?」
「え?」
「こう、しなを作って、肩を中に入れて…って、それは後で教える」

 手元を取ったままで、肩を動かしてみせながら、佐助は首を振って再び筆を紅く染めた。

「佐助…それは何だ?」
「これ?」

 幸村が身を乗り出してみると、佐助は横に流した視線で問い直してきた。少し猫背になっているものだから、幸村と視線の位置が合い、どきん、と胸が飛び跳ねた。
 だが佐助は構わずに肩を寄せて幸村の前に鉢の中を示してくる。

「これは鳳仙花の汁だよ、旦那。すりつぶして、こうして爪に塗るの」
「そ…そうか」

 近くなった距離に幸村が身体を硬くしていると、じっと佐助が見つめてくる。

「旦那もやってみる?」
「え…ッ?」
「塗ってみない?」
「いや、不器用だし…何よりそのようなもの似合うはずが…」
「似合うよ」

 慌てて幸村は首を振ると、すとん、と佐助は答えてくる。そして小助の手を離すと、さらり、と幸村の手をとってから、ぐっと口元に引き寄せる。

 ――ふ。

 吐息が指先に当たって幸村が真っ赤になっていくと、間で見ていた小助が溜息をついた。

「頼みますから、その先は俺が居ない時にしてくださいよ」

 呆れたようにして言う小助は、幸村とそっくりな顔を――眉を片方だけ下げるという、非対称な動きで――歪めて見せた。だがこの小助の言葉に小首を傾げたのは、幸村ではなく佐助だった。

「何で?」
「何でって…長、仮にも目の前で仲睦まじい姿を見せられたら、溜まったものじゃないんですけど」
「仲睦まじいって…俺と旦那なんてこんなものでしょ?ねえ、旦那…――」

 不思議に小首を傾げた佐助が、くる、と振り返ると、真っ赤になって俯いている。口元をきゅっと引き結んで、ぷるぷると震える姿はどうみても小動物のようだった。
 今度はその様子に佐助も小助も驚いて口をあんぐりと開けた。

「ゆ、幸村様?」
「旦那…ちょっと、何、女子みたいな…」
「――…ッだ」

 佐助の戸惑いに、ぼそりと幸村が答える。そして次の瞬間、目元を涙で潤ませた幸村が顔を上げた。

「私はずっと、女子だ…ッ!」

 声を荒げた幸村の目元から、大粒の涙がぼろんと零れた。すぐに反応したのは小助で、袖を手元でたくし上げて幸村の目元を拭う。

「幸村様、幸村様…泣かないで下さい。ね?」
「ううう小助ぇ」
「え…――ちょ、な、何?」

 急に変わった幸村の機嫌に佐助が前髪を掻きあげて戸惑う。そうしている内に小助はひょいと幸村の細い肩を引き寄せた。そうすると幸村と幸村が抱き合っているように見えてしまうのだが、今度は佐助の眉がぴくりと動いた。

「な…小助ぇ、お前調子に乗ってないか?」
「違います。長、俺と幸村様がこうしていて如何思うんです?」
「どうって、ムカつく」
「それはどうして?」

 ――どうして?

 小助が冷ややかな視線を向けながら、腕の中で幸村を宥めつつ聞くと、佐助の動きが止まった。幸村もぐすぐすと鼻を鳴らしながら身を起して佐助を振り返る。

「あ…――っ」

 涙に濡れた眼で見つめた佐助が、今度は先程の幸村のように――顎先から急にぶわあああと真っ赤になっていった。そして直に俯くと、口元を手で覆った。

「――…参った」
「長、いい加減認めてしまえば良いんですって」
「五月蝿いなぁ、お前、黙ってて」

 どうしようかと佐助が何度も呟いている。戸惑いが見て取れるほどに、彼は頭を掻き毟ったりと忙しない。幸村はそんな姿にも、とくとく、と鼓動を躍らせながら、じっと彼を見つめていく。

「幸村様、俺、ちょっとこのまま他の奴らにこの顔見せてくるんで、長の事頼みますね」
「え?ま…待て、小助ッ」

 あまりに煮え切らない佐助に痺れを切らせて、小助が立ち上がる。幸村の制止も虚しく、小助は姿を消してしまう。するとその場には佐助と幸村だけになってしまう訳だ。

「――…」

 気まずい雰囲気を感じ取りながらも、幸村が手元をきゅっと握りこむ。すると佐助が口羽をきった。

「旦那、手…貸して」
「え…――」

 幸村の握りこんだ手を、佐助はさらりと取ると、静かに幸村の爪に紅く筆をおいた。爪が赤く、紅く、幸村の手元を彩る。

「佐助…私は、その…似合わないからッ」
「ううん、似合う、から…」
「でも」

 ぺた、と手元のひとつの爪を塗り終わると、佐助は幸村のことを見上げることもなく、今しがた塗ったばかりの指を手に乗せた。

「この指、何処に繋がっているか、知ってる?」
「――?」

 不意に問われたことに、幸村が小首を傾げる。すると、佐助は幸村の手をそのまま自分の胸に押し当ててきた。

「これが、俺の気持ち」
「――ッ!」

 どくどく、と触れさせられた胸が弾んでいる。それに気付いて幸村が顔をあげると、彼は耳元に囁くように言った。

「左の薬指は、心の臓に繋がってるんだって。もし…もしも、赦されるなら」

 ――此処だけは、俺に染めさせて欲しい。

 近づいた距離に、幸村が瞳を大きく見開く。そして幸村は大きく頷くと、腕を彼の首元に絡め取り、ぎゅうと引き寄せた。

「ずっと、お前だけに染めさせよう。だから…」
「うん」
「側に居て」

 気付いた気持ちに正直になりながら、二人は額をぶつけ合って、ふふ、とかすかに笑った。
 春に芽吹いた恋心、それは夏に花開いた――後は秋の実りを待つだけ。









 しんしん、と降り積もる雪の音にそっと眼を覚ますと、佐助は辺りを見回した。肌寒いと思うのは布団から出ている足元だ。それを中に押し込めると、ぬくぬくとした暖かさがやってくる。
 身体を縮めて布団に蹲ると、抱き込んだ暖かな塊が、寝返りを打った。

「旦那…」

 小さく呼びかけて、そっと左薬指を取る。其処に口付けながら、彼女の指先が赤く彩られているのを見つめ、再びぎゅうと抱き締めていった。








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佐幸ver.もあり