迷いなく 目の前に広がる屍の山、そして燻る焦げ付いた匂いの中で、彼女だけは赤くその衣を翻して立っていた。 何処にも――煤の汚れさえなく、手に二槍を持ったまま、炎の中に立っている。炎風に髪が煽られて、ひらひらと彼女の背で揺れている。 「本当にこれで良かったの?」 「――某が選んだのだ」 背後から姿を現した男に、振り返ることなく彼女は言い放つ。口調ははっきりとしており、その言葉の何処にも躊躇い等なかった。だが躊躇ったのは男の方だった。 闇の中から這い出て尚、辺りに闇の残滓を残して、腰に手をついて嘆息する。 「でも、あのまま…」 「くどいぞ」 男の迷いを、躊躇いを、全て打ち消すように彼女が声を荒げる。そしてゆっくりと自らの両腕を抱き締めて行く。彼女の武器である二槍も共に、腕の中に抱き締め、彼女は何かを断ち切るように顔を起した。 男の位置からは彼女の表情を見ることは出来ない。見ることが出来るのは、その華奢な背中と、翻る長い髪――そして背に背負った六文銭。 「お前に逢わなければ…――いや、今更詮無い事。もう、決めたのだ」 「ごめんね、旦那」 ざり、と足を進めて腕を拡げた。 ふわりと親鳥が小鳥を護るようにして、腕の中に彼女の華奢な身体を抱き締める。両腕を広げて引き寄せてしまえば、彼女の身体は全て腕の中に隠れてしまうほどだ。 ぎゅう、と強く抱き締めていくと、そっと腕に――手甲のついた腕に彼女の指先が触れてきた。 「今、どんな顔をしている?」 「――…」 彼女が不意に問いかけてきた。辺りは未だに怒号が響き渡っている。阿鼻叫喚の場面が広がるこの戦場にあって、彼女の存在だけが清らかなように見えるほどに異質だった。 ふ、と瞳を起して彼女が肩越しに振り返る。 「お前の目には、某が映っているか?」 「勿論」 すい、と彼女の――向けられた顔に、唇に向って顔を寄せる。柔らかく触れたのは彼女の唇だったが、この黒い装束は目元以外を覆い隠している。 口布越しの口付けは、どこか冷たいような気がしてならなかった。 「――佐助」 くるりと彼女が腕の中で向きを変える。そして背に腕を巻きつけて、そっと胸元に頬を押し付けてきた。 「共に居られるのなら、修羅すら受け入れよう。着いて来てくれるか」 迷いはないと告げた彼女の声が僅かに震えていた。 「旦那が修羅を選ぶなら、俺様に厭は無いよ。何処までも…」 強く抱き締めながら、ただ耳元に刹那の告白を述べていく。この戦場にあって、共に修羅を選び、突き進む――それはあの日出逢った時に、捧げた約束を守る為のものだった。 武田の将には紅蓮の鬼と呼ばれる将がいる。 それは周知の事実で、その名を知らぬ者が殆ど居なかった。だがそれが、女子であるということは、遠く離れた場所には伝わらずに、まるで御伽噺のように伝わっている話だった。 故に、紅蓮の鬼――真田源次郎幸村が、婿を娶るという話を耳にして驚かない者はいなかった。それでも彼女も年頃で、鬼と呼ばれるまでの猛将となれば子孫を望まれないことはなかった。 相手は大谷の子息――不足はないと、結納までを滞りなく過ごし、これで戦場に出ることもなくなると想っていた矢先だった。 上田の屋敷は祝いの空気に包まれていた。 日ごとに膨らむ婚儀の匂いに、幸村は居心地悪く外に出た。既に結納を済ませてから、数日間、ずっとこうして宴会が続いている。 ――忙しない。 幸村は縁側に座り込むと、はあ、と大きく溜息をついた。 「姫様、お疲れですか」 「才蔵…――馬鹿らしいと想わぬか」 「何がで?」 幸村の姿が見えないことに、即座に気付いた才蔵が側にくる。気が利いているといえばそうだろう。彼の手には甘味が乗せられてあった。 「姫様に婿殿が来る――目出度いことでしょう?」 「そうか…才蔵はこの幸村がどこの馬の骨とも知らぬ者に抱かれても良いと申すか」 「は…?あ、いえ…ッ」 「冗談よ。気にするな」 ――もらうぞ。 幸村は才蔵の持って来た甘味を手に取ると、ひょい、と口に入れた。京で流行の干菓子だというそれは、甘く咽喉にまで染み入るようだった。 「気に入らないのですか、幸村様は」 「お館様や、兄上の勧めなら、断れもしまい」 頬に両手を添えて、ふう、と再び溜息を付く。ここ数日、何をしていても溜息が消えることはなかった。 「私は婿殿を知らぬ」 「それは…これから知れば」 「結納の際に、ちらりと見ただけだ。もう顔さえも覚えておらぬ」 「…幸村様」 「一度で良い…町で噂に聞く、恋をしてみたかった」 「またそのような…」 ――前田殿に感化されましたな? 昔から側にいる忍である才蔵が、ぴん、と軽やかに幸村の額を弾いた。それでも幸村は怒ることもせずに、はあ、と溜息を付くだけだ。 「某は、お館様のお役に立ちたいのだ。それが婚儀のせいで戦場に出られないとなれば、私の存在意義はなんであろうか」 「幸村様…――」 巷では紅蓮の鬼とまで呼ばれている。だが実際のところ、女子らしいことは何一つ出来ない。出来ることといえば、戦に出て戦うのみだ。それを想うと先行きさえも怪しくなってしまうようだった。 はらはらと目の前に散り始めた花々が見える。それを縁側に出て座りながら、じっと眺めていく。屋敷の中では宴会の音が忙しなかった。 ――ばさ。 浮かれる宴会の音の背景とは裏腹に、幸村の心はずっと晴れない。遣り残したことが多すぎて、どうにもこうにもすっきりしなかった。 ――ばさ。 つい、と側にある皿に手を伸ばして、干菓子をかりりと齧り取った。そうすると次の瞬間、ぴしりと才蔵が警戒をその身体に纏わりつかせた。 「――――…ッ」 「才蔵…ッ」 「何か来ます。ご用心あれ」 きりきりと周りの空気が切迫する。だが背後の宴会の音は間違いな程に賑やかだった。 ――ふわ。 空から一羽の黒い鳥が降り立った。 夜の帳を引き連れて、その黒い羽根を大きく収めるようにして、音もなく地面に降り立ってきた。 「――――…ッ」 ひらりと膝を地面についたままの姿に、腰を浮かせた才蔵が進み出ようとして止まった。それを隣で見上げながら、幸村は視線を目の前の鳥から外せなかった。 黒い鳥――いや、それは紛れもなく人だった。 ゆったりと起き上がる彼は、全身を黒い装束に包み込み、顔の半分を覆い隠しており、定かにその表情は解らない。だが彼の髪がやたらに赤いことだけは解った。 ――何者だ? きゅ、と口元を引き締めて幸村が彼を凝視する。その横で立ち上がった彼とは裏腹に、才蔵が膝を折って軽く頭を垂れた。 「長らくご無沙汰しておりました」 「お前は…」 耳に馴染みのない響きを伴って、男の声が響く。そして彼は口布を引き下げながら、幸村に向って自分の素性を語っていった。 「真田忍隊隊長、猿飛佐助。ただいま帰還致しました」 ――覚えている?旦那。 にこりと歪められた瞳に、微かに見覚えがあった。幸村は肩から力を抜くと、目の前の男を見つめて、佐助、とその名前を呟いた。 幼い時分に、不意に姿を消した幸村の――最初の忍。 あの時のあどけない少年の姿が――すっかり忘れていたのに、今目の前に青年となって現れた。幸村はただ彼を見つめたまま、動けなくなっていった。 宵闇の中で、彼らの背後に流れる宴会の音だけが姦しくて、煩わしくてならなかった。 闇から降り立った鳥に、全てを奪われた瞬間だった。 佐助が戻ってきたのは、幸村の婚儀の噂を聞きつけたからだった。しきりに喜びを伝える彼とは裏腹に、幸村の胸の中には嵐が沸き起こっていった。 あの夜、ただ目の前に現れた彼に、ひと目で恋に落ちた――それを口にすることは憚られる。だが佐助のことを考えると、どうにもこの自由にならない身が疼いてならなかった。 そして幸村はとうとう、武田信玄の前で頭を垂れて懇願した。 「お館様。どうか…」 何度も頭を下げて彼は信玄に告げた。何よりも喜んでくれた主の顔を潰すようなものだ。手討ちをも覚悟していた。それでも気持ちは違えられない。 「お許しくだされ。この幸村、此度の婚儀をお断り致したく」 何故だ、と信玄が聞いて来た。本当のことは言えるはずはない。 ――忍に恋をしたから、などと。 将である自分にそれが許されるだろうか――自問するたびに出て来るのは【否】という結論ばかりだった。幸村は静かに頭を起すと、自分の手を握り締めた。これから口にするのは、主に嘘をつく――主を謀るたまの文句だ。 ――だがあながち嘘とも言い切れぬ。 幸村は自分の、たおやかさとはかけ離れた、硬くなった指先を握りこんだ。二槍を操る際に何度も豆を潰した手は、今は男のように硬く、ごつごつとしていた。 「この手は当に血塗られております。今更、人並みの女子のような夢など…」 「幸村…」 「夢など、某には必要なかったのでございます」 ――好いた相手と添いたいなどと。 そんな事を願っているとは口には出来ない。だがそれも彼の気持ちを知っているわけでもなく、適うとも限らない。それでも押さえることの出来ない濁流のような感情を、ただ胸にしまいこむには辛かった。 「どうぞ、この話はなかったことに」 深々と低頭し、幸村は畳に額をこすり付けるように身体を折りたたんだ。それでも信玄は「何故だ」と幸村に問い続けるだけだった。 上田の屋敷に着くと、ばたばたと足音を立てて幸村の元にきた者がいた。 「旦那…ッ!」 「佐助か」 自室にいく途中だった幸村が振り返る。間近にきた佐助は明らかに困惑した顔で、幸村を諌めようとしているように、眉根を寄せていた。 「断ったって、一体どういう…――」 「――――…ッ」 ――ぐい。 赤い髪を掻き上げた彼の胸元を、不意をついて掴みこむ。そして背伸びをして、ふ、と彼の唇に触れた。間近に迫った佐助の瞳が大きく見開かれ、そして幸村の行動を注視した。 「こういう訳だ」 「え…――」 佐助の手が、額から身体の横に下りた。それでも幸村は胸倉を掴んだ手を外せなかった。 「私には嫁御の真似事など出来やしない」 「そんなこと…」 俯いていくと、そっと肩に佐助の手が触れる。彼にして見れば自分はただの妹のような、幼い主でしかないかもしれない。ただの女子のようには見てくれないかもしれない。 それでも、彼と一緒にいたくて、決断したことだ。 佐助に触れられた処だけが、熱く、融けてしまえば良いのにと想わずには居られなかった。幸村はそっと顔を上げた。笑うことは出来なくて――たぶん歪めたような、無茶な笑顔だったに違いない。 「佐助。お前はこの血塗れの手を取ってくれるか?」 「旦那…」 明らかに動揺を含んだ佐助が、ぐ、と咽喉の奥を詰まらせる。その仕種がまるで泣き出すのを堪えているかのようだった。だが幸村は佐助の――自分の肩に乗せられた手に、そっと自分の手を添えると、その手を自分の頬に当てた。 ――参戦を申し渡された。 「――――…ッ」 びく、と佐助が揺れる。戦に出ることを赦された――いや、婚儀を断るのなら、将として働けと言われたようなものだ。 ――それでも構わない。 「お前と居られるなら、私は…」 佐助の掌は冷たく、熱くなっていく頬とは裏腹に心を満たしていくようだった。言いながら頬が濡れていくのを感じる。そしてそんな幸村を見ないようにするためか、佐助は言葉を詰まらせて、ただ胸に強く引き寄せてくれた。 「佐助…」 「馬鹿だね、あんたは」 「はは…そうかもしれぬ」 ぎゅう、と抱き締めてくる佐助の腕は強く、これが男の腕なのか、と想わずにはいられなかった。幸村はただ彼の温もりを求めるように、ゆるゆると彼の背に自分の腕を絡めて行くだけだった。 戦場の燻った香りが懐かしくも鼻先に触れてく。少しだけ顔を起してみると、佐助の頬には血が――戦化粧に血液が塗られていた。 ――ごし。 誰の血かわからぬそれに指を触れさせて拭う。すると佐助は「獣に紛れる為なんだから」と苦笑した。だが獣でも何でも彼を汚すのは、別の誰かのものだというのは厭だった。 「旦那、本当に…これで良かったのかな?」 確かめるように佐助が額を押し付けてくる。今日は彼は黒い鳥のように真っ黒な装束で闇を駆けている――まるで再会した瞬間のようで、こんな場所なのに胸が高鳴って仕方なかった。 「この真田幸村、迷いなど微塵もござらぬ」 「――…」 「戦場ならば、お前と共に居られる。お前だけを思って生きていられる」 「旦那…」 抱き締めてくれていた腕を振り払うように、ふわりと彼の腕の中から飛び出す。そして両手に再び二槍を構えた。ぶん、と勢い良く響く杖の音に、くるりを踵を返す。そしてまだ燻る戦場を見回し、佐助に背を向けると屍の間に身体を飛び込ませた。 「なんて僥倖だろうな」 振り返りながら微笑む。 「終わりの時まで、愛しいものといられるなど」 振り返った先には、戦う彼の姿がある。柔らかく睦みあうことは出来なくても、こうして共に駆けることは出来る。 「旦那…ッ」 手に鉤爪を掻け、手裏剣を構えている佐助に腕を伸ばした。この先にあるのは、戦いしかない。それは刹那の逢瀬のように二人には必要な場所だった。 「さあ、行こうぞ」 「そうだね…」 呼びかけた瞬間、ふわりと背後から再び抱き締められた。幸村は歪む視界のままに微笑むと、咆哮を上げて地面を蹴っていった。 ――貴方だけ想って生きていく為に、修羅の道を選びました。 この腕に振るう二槍の重みも、骨を血肉を断ち切る痛みも、全ては彼と共に生きられる場所だから選んだもの。 ――其処に何の迷いもなく。 了 090515up/長編向きのお話だったかも |