誓いは闇夜の華に 今までどんなに勧めても首を横に振り続けていた佐助が、初めて幸村からの盃を受けた。 その変化に驚くと共に、楽しくなって幸村は次々に酒を注いでいく。男子たるもの、これくらい呑めずにどうする、と笑いながら酌をすれば、女子なのに呑める旦那ってどうよ、と皮肉を返す。 いつもならば噛み付くところだが、幸村は上機嫌で酌を繰り返していった。 庭先の桜が今や満開とばかりに咲き誇って、少しの風でひらひらとその花弁を散らしていく。その風雅な様相を眺めながら杯を重ね――気付けば佐助は真っ赤な顔をして撃沈した。 「まったく…飲めぬなら、飲めぬと言えばいいのに」 「だんにゃ〜」 佐助は常には考えられない崩れようで、今にも猫のように咽喉を鳴らしかけない勢いで、幸村の膝に頭を乗せていた。 「佐助、そろそろ私の膝から頭を退けろ。ほら、こんな所で寝たら風邪をひくぞ」 「やだよ、まだ呑む〜」 幸村の手にした枡に、佐助は手を伸ばして首をぶんぶんと振った。真っ赤な顔をして、胡乱な目つきになっているし、舌も廻りきっていない。幸村は長い睫毛をぱしぱしと瞬きさせてから、くわ、と叫んだ。 「もう止めておかぬかッ」 「らって!酒くらい呑めなきゃ、だんにゃをお嫁になんてできましぇんッ!」 「――…ッ」 急に叫んだ幸村に対抗するように、佐助が勢い良く起き上がり、ずいと顔を近づけてくる。むっと口元を引き結んで、眉を吊り上げている――本気のようだ。だが直ぐに、ずるずる、と崩れると再び幸村の膝に頭を落とした。 「らんにゃの、好きな、たいしょうに…勝てるくらいじゃなきゃ…」 「お館様と張り合ってどうする…」 幸村は其処まで聞くと、酔っ払いの戯言だろうと溜息をついた。 ――今の言葉、素面のときに聞けたら。 幸村は薄い肩を少しだけ猫背にすると、膝に乗っている佐助の朱色の髪に指先を這わせた。手に、指に、触れる佐助の髪は日頃の手入れもしていないのが解るくらいに、軋んでいた。 ――私には、女子らしく、と椿油をつけるくせにな。 妙に自分には優しい佐助の仕種に、勘違いしてはいけないと何度も想ってきた。だが、こうして酔いに任せてでも「嫁にしたい」と言われた日には顔に朱も上る――好かれているのだと、嬉しくなってしまう。 だがそれもこれも、すべて素面の時に言ってほしい。でなければ、信じることは難しいように感じられてしまう。幸村は細い指先を、つい、と佐助のこめかみに滑らせると、声を潜めて彼に告げた。こうして膝に佐助の頭が乗っているだけでも、本当は胸がとくとくと鳴ってしまっている。ずっとこうしていたい気持ちもあるが、速く彼を退かさないと己の気持ちがばれてしまうのではないかと不安になってしまう。 「ほら、駄々を捏ねるな。今日はもう仕舞いだぞ?」 「いやらッ!」 「聞き分けぬかっ」 「まだ呑むの――ッ」 ぎゅうと幸村の腰に両腕を回してしがみつくと、少しだけ顔を起して、へらり、と笑ってみせる。微笑んだ佐助の眉が、ふにゃ、と下がる。思わず胸が、きゅん、とときめきそうになった。 「…幼児返りしおってからに…これ、そんなに腹回りにしがみ付くな」 「ううぅん…」 唸る佐助を抱えるようにして、すっくと立ち上がる。ずっと座っていたとはいえ、まったく酔いもしていない幸村には何の支障もない動きだ。 「よっ…と!」 「ん?」 「さぁすけ、腕を私の首に回せ」 さもすると、かくん、と倒れこみそうになる佐助の腕を自分の方へと引き寄せて、幸村は彼を横抱きに抱え込んだ。大の男を一人抱え上げられてしまう自分の腕力にも、時には溜息を吐きたくなる。 ――しとやかさとは程遠く。 ふとそんな言葉が脳裏に蘇る。昔からよく言われてきた言葉だ。だが幸村は頭を一振りすると、佐助を抱え上げて廊下へと向った。 「旦那って、なんでそんなにかっこいいの…」 「はいはい」 「でも可愛いんだもんっ、反則すぎら〜」 「…自棄に饒舌だな、こいつは」 抱きかかえられながら、佐助が幸村の首元にしがみ付く。そして楽しそうに、くふくふ、と笑い出してきた。 「ふんふんふん、だんにゃ、だーんにゃ」 「歌って居るわ…ご機嫌だな。佐助?」 苦笑しながら聞くと、佐助は幸村の耳元に、少しだけ楽しそうに問いかけてきた。 「ねぇ、旦那…俺様が旦那に求婚したら、どうする?」 「え…――…」 幸村は思わず足を止めてしまった。するとそれに合わせて、ざあ、と庭先から吹き込んできた桜の花びらが視界を埋めていく。 「やっぱり、無理かな。俺、旦那をお嫁さんに…」 「さ…佐助!それは…真かッ?」 幸村は背中から熱が沸き起こってくるのを感じながら、足を止めて聞き返した。すると佐助はまだ軽い調子で、ふふ、と笑いながら耳元に囁いてくる。 「うん、大将に、申し出てみたんだぁ」 「お館様は何と?」 「ふふ…」 佐助は其処まで言うと、ぎゅう、と幸村の首元に絡めた腕を強め、香りを吸い込むように擦り寄ってきた。だが肝心の返答は聞けていない。訝しく感じて押し黙っていると、佐助は強請ってきた。 「旦那ぁ、もっと抱っこして」 「調子に乗るな。ったく…――軽いな、お前」 ずり落ちてきた彼を揺すり上げ、持ち上げなおすと佐助は真っ赤な顔のままで、顔を起した。 「うん?そりゃあ、忍だもんよ。旦那より軽いかもね」 「――――ッ」 ――どさっ 幸村は途端にぱっと腕を放した。すると支えを失って床に佐助が盛大に落ちる。 「痛ぇッ!」 「悪かったな、肥えておってッ!」 肩を怒らせて叫ぶと、佐助は打ち付けた腰に手を当てながら見上げ、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。どうやら少し酔いが冷めてきたようだ。 「え、あら?」 「佐助などもう知らぬッ」 眉根を寄せて思い切り叫ぶと、幸村は肩を怒らせたままで踵を返そうとする。彼女の変化に戸惑いながら佐助は起き上がり――足元はまだふら付いていたが――幸村の肩を掴みこんで振り向かせた。 「ちょっと、旦那?」 「知らぬわッ。勝手に其処で寝ておれッ」 ――ばしッ。 軽く振り解かれてしまい、今度は佐助が慌てる。逃がすまいと手首を掴んで引き寄せ、強く引き寄せた。勢いに任せて、どん、と佐助の胸元に背を打つと、幸村はカッと顔を赤くした。 「――――…っ」 「御免、御免、そんなつもりじゃないのよ。機嫌直して」 「――…」 宥めるようにして佐助が繰り返す。両腕で幸村を包み込むように、背後からぎゅうと抱き締めてくる。鼻先に、桜の香りに混じって、酒と、佐助の匂いが触れてくる。 「俺は旦那がこれくらいのが好き。やわっこくて、ちいさくて、腕に入るんだもん」 「――…人が気にしていることを」 俯きながら幸村が拳を握り締めていく。女子としては、しとやかさも無く、武将としては時として力も足らず、葛藤に悩まされることも大きい。だが佐助の手に掛かれば、自分もただの――か弱い女子でしかないと、言われてしまっているような気持ちになる。それもまた、時には嬉しく、時には悔しいことだ。 「そうだよね。武将としては、旦那には辛いかもしれないよね。でも…」 「わっ」 くるん、と肩を回されて、両肩に佐助の大きな――男の手が置かれる。そして彼が幸村を抱き締めてくると、耳朶に囁くように――楽しそうに、声を弾ませた。 「旦那を護れる男は俺だけだって思えるじゃない?」 「――ッ」 佐助は徐に幸村の右手を取ると、ふう、と熱い吐息を触れさせながら、軽く手の甲に唇を押し付けた。 「俺の、俺様の前でだけでいいから、おんなのこでいて」 手の甲に触れる佐助の熱い唇の感触――それだけでも、とくとく、と胸が早鐘を打ち始めていく。それなのに更に煽るように上目遣いで見つめられて、幸村はこくこくと頷いた。 「う…うむ」 「へへ…旦那、かわいい…――っ」 ふにゃ、とまた柔らかく微笑んだと想ったさっけが、今度は脂汗を浮かべ始めていく。その様子にどうしたのかと見上げていくと、がば、と佐助は手を口元に向けた。 「佐助?」 「――っ、うッ…」 「ぎゃああああ、此処で戻すなっ!あっちへ行けぇぇぇぇ」 はっと気付いて幸村は思い切り佐助を突き飛ばした。その衝撃で佐助はその場に倒れこみ、ずるずると縁側から頭を庭先の地面に向けた。 「ひ…ひど…―――っ」 幸村はそのまま廊下を走って行ってしまう。 ――どたどたどたどた 勢いよく響く幸村の足音を聞きながら、佐助は仰向けになって夜空にうかぶ桜を見上げた。闇に映える白い霞――それは、風に煽られて、きらきら、とまるで星のように煌いていた。 ――叶うことない願いでもいい。 手に触れた幸村の感触を、じっと思い出して、佐助は彼女の手に触れた手を口元に近づけた。 ――旦那が何処にいっても、誰を好きでも、俺は想うから。 酔いに任せて告げた妻問い――ほんわりと頬を染めた幸村に、嬉しさを感じながら、佐助は吹き込んでくる花びらに手を伸ばしていった。 彼女の背を護りながら戦場を駆けるのは変わらない。鮮やかなまでの煌きを放つ幸村に、戦場でいつも戦慄を覚えるのも事実だ。 華奢な身体からは想像も出来ない、鮮烈なまでの強さ――その美しさに魅せられてしまっていると、自覚している。佐助は伝令を終えると幸村の姿を探した。 「旦那、旦那…何してんの」 「佐助か」 戦は既に終結し、皆帰路につき始めていた。そんな中で幸村は両腕に槍を持ったまま、巨木の下で、その樹を見上げながらじっと佇んでいた。 「そろそろ戻りましょうよ。もう、粗方片付いたでしょ」 佐助が帰還を促がすと、幸村は「そうだ…戦は終わった」と口の中で呟いた。彼女の唇は紅を刷いたかのように、血で赤く染まっていた。 「ああ、桜?それにしても綺麗だねぇ」 不意に気になって幸村の見上げていたように、視線を上に向ける。するとそれは桜の樹だった。満開を少し過ぎて、はらはら、と花弁を散らす姿は、闇に映ってきらきらと瞬いている星のようだった。 からん、と手にした槍を持ち直し、幸村が桜に背を向けながら、風に舞い上がる花弁の先を追って行く。 「この戦がなければ、今頃お前と祝言を挙げていただろうに、と思ってな」 「――よそうよ、こんな時に」 ぴく、と佐助の肩が揺れた。だが佐助は近づいてきた幸村を迎えるように両腕を広げ、自分の胸に幸村を迎え入れる。幸村は槍を地面に落とすと、佐助の背に腕を回して、彼の胸元に顔を埋めた――二人とも血に汚れ、塗れ、泥と鉄錆の匂いさせていた。 「あれから一年ぞ?」 「――…」 「なぁ、佐助。帰ってからでいい。桜が散ってしまう前に」 「――…」 幸村が佐助に抱きついたまま、顔だけを上に向けてくる。そんな彼女の背に、腕を回せずに、佐助は身体の横に腕をぶらりと下げた。だが幸村は真剣に――だが今にも泣きそうに眉を下げ、瞳を眇めた。長い彼女の睫毛が、微かに涙で濃くなっている。 「私を攫ってくれ」 ――お願いだ。 ほろ、と上向いた幸村の眦から涙の粒が零れた。佐助は笑おうとして――笑えずに、くしゃりと変に顔を歪めてから、崩れ落ちるかのように上体を屈め、幸村の細い――肩甲骨の浮き出る背に、腕を回して抱き締めた。 「ふふ…なんてお姫さんだよ、あんた」 「佐助」 ぐっと力をこめると撓る背中が、腕と云う蔦に絡まって離れる事無く触れ合っていく。佐助は震えそうになる声で、幸村の耳元に囁いた。 「いつでも攫ってあげる。まだ、俺のことを想ってくれるのなら…」 「佐助ッ」 背に回っていた幸村の腕が縮み、頬に彼女の細い指が触れる。顔を起され、正面から見つめあうと、幸村は泥と血で汚れたままの顔で――ふくりと頬が隆起するくらいに微笑んた。その笑顔はどんなものよりも綺麗だと――思わず見惚れずには居られないほどだった。 「帰ったら祝言を挙げよう。誰にも言わずに」 「三々九度の酒で、俺様、倒れないようにしないと」 「おお、そうだ。お前は下戸だった」 ほろ、ほろ、と幸村の大きな瞳から涙が粒になって零れ落ちていく。一年前、一緒に花見をした時、酔いに任せて互いの恋慕を知った。 だがそれから二人の距離は縮むことも無く、少しの気まずさを残して今に至っていた。全ては戦の為、家の為、そして身分差のため――二人の間には多くの問題があった。 「でも、酔ったら旦那が介抱してね」 「解っておる」 あの時の事を思い出しながら、それでも求める気持ちだけは止める事は出来ないのだと、一年経って気付いた。 幸村は、ふふ、と口の中で笑ってから、二人の頭上の桜を見上げた。佐助もまた釣られるようにして見上げる。 「桜だけが、知ってくれていれば良い」 「うん、旦那」 「だから、還ったら…な」 ――還ったら、一緒になろう。 そんな風に囁きあいながら、降りしきる桜吹雪の中で触れた唇は、自分たちに似合いの、鉄錆と、泥の味がしていた。 はらはら、はら、はら、と銀色の花弁が夜闇に舞い上がる。小さな誓いを押し隠すように、花吹雪が二人を包んでいくだけだった。 了 090314/100404 up |