玉響





 ――本当は参戦なんてさせたくなかった。

 柔らかく滑る肌に、さらり、と上着を滑りあげていく。それを手伝いながら、彼女の項に掛かる髪を払った。そして組紐を取り出して、きゅ、と引き結ぶ。

「支度、粗方出来たかな」
「そうだな…」

 とん、と背中から肩に手を当てると、幸村が手を握ったり開いたりしながら頷いた。その様子を肩越しから覗き込む。

「また胸当て忘れたりしてないよね?」
「ばばば馬鹿を申すなッ!」

 かっと真っ赤になった幸村が振り返る。その面は鮮やかなまでに、表情がよく変わる。くるりと上に向かった睫毛が、ぱちぱちと何度も瞬きを繰り返していた。

 ――可愛いのにね。

 佐助は腕を頭の後ろに組んで、ちらりと彼女の方を見下ろす。

「だぁってさ、あの時は本当に焦ったよ。俺様が追いかけても、追いかけても、どんどん先に進んで行っちゃうし」

 ――気付いていなかったし。

 幸村は拳を握りこんで、真っ赤になって佐助の前に立っている。以前の戦い――初陣の頃、彼女は――ちいさな、ささやかな胸だったせいで、誰も気付かなかったが――胸当てを忘れていた。
 そのお陰で佐助は死ぬほど慌てて、彼女を追いかけ続けたが、結局全て撃破するまで彼女を止められなかった。

「斯様なへまはもうせぬわ…っ」
「本当ぅ?」

 ぷう、と幸村は口を膨らませる。唇が薄紅色をしていて、柔らかそうだった。佐助は引き寄せられるように、身を屈めると彼女の唇に吸い付く。

 ――ちゅ。

 小さな吐息を吐きながら、離れる佐助に腕を伸ばしてくる。幸村の腕を引きはがすと、彼女は不思議そうに首をかしげた。

「戦前だから…これ以上は駄目」
「某なら構わぬよ?――触れてくれても、構わぬ」
「支度、終えたばかりでしょ?」

 ふふふ、と笑いながら佐助が幸村を胸の中に引き寄せると、こくり、と彼女は頷いた。鉤爪がついているせいで――佐助は幸村に触れない。
 指先で彼女を傷つけてしまっては、どうしようもないからだ。

「――ならば、行くか」
「そうだね、そろそろ」

 幸村は佐助の胸を、とん、と押した。そして瞼を落とす。

 ――変わる。

 初々しさを残した少女から、鬼神へと変貌を遂げる。
 その瞬間は一瞬――だが、佐助にはこの瞬間が一番、恐れを抱く瞬間だった。










 ぱしん、と勢い良く戸を開け放つと、幸村は背筋を伸ばして前に進み出た。ほんの一瞬前に、あんなにも柔らかそうな肌を見せて、幼い少女の容貌をしていたというのに、前に見る背中がやたらと伸びていて近寄りがたくなる。

「怪我、しないでよね、旦那」
「誰に向かっていっておる」

 進み続ける幸村の背中に告げると、振り返らずに幸村のはっきりした――明瞭な声が響いた。

「だって、一応お姫さんなんだし。傷つけないでよね」

 彼女の後ろをついていきながら、回廊を曲がる。すると其処で彼女は止まった。

「佐助」
「はい」

 佐助は声を潜めて、彼女の言を待った。すると僅かに彼女の背に流れる髪が、はらり、と動いて、鉢巻がはためいた。

「某の肌、傷つけたくないのなら、お前が守ればよかろう」
「――――ッ」

 肩越しに顎を引いて幸村が顔だけを向ける。その瞳に、きらり、と金色の光が宿る。そして口元をにやりと吊り上げると、幸村はそのまま外に飛び出した。

「…帰ったら確認するからねッ!」
「ははは、待っておるわッ」

 走りこんでいく幸村の背中に声を張り上げる。それを笑いながら振り返り、彼女は鮮やかなまでに馬に飛び乗った。
 一瞬の変化で、少女にも、鬼女にも――そして、女にもなる。

「まったく厄介なお姫さんだよ…」

 佐助は、はあ、と大きく溜息を吐きながら彼女の後を追っていった。













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