プラトニック・ラヴァーズ





 出社してから直ぐに行うのはメールチェック、そして社長のスケジュール確認と、軽い清掃――更に、社長が出社してくる前に、デスクの上を整えてから、彼の好きな飲み物を用意しておく。
 其処まで一人でする必要はないといわれるかもしれないが、やるならとことんやらないと気がすまない。
 片倉小十郎は秘書室の時計を見上げてから、他の部下達に伝達をして席を立った。
 手には分厚い手帳――それに、盆を持って社長室へと向った。

「おはようございます、政宗様」
「Good morning」

 ノックをして中に入ると、今ようやく出社してきたといった風情の伊達政宗――この会社の若き社長だ――が、顔を起すところだった。
 静かに小十郎は盆を彼のデスクの横にあるサイドテーブルに置くと、彼の背後に回りこみ、まだ着たままだったコートを預かる。

 ――するり。

 まるで当たり前のようにコートを預ける政宗の項に、微かに色がついていた。

 ――襟で隠れる程度か。

 その痕を見つめながら、小十郎は一呼吸置いた。そしてコートを掛けてから、持って来た盆の上にあるカップに、静かに紅茶を注いでいく。

「いい香りだな…今日は何のフレーバーだ?」
「柚子の香りをつけたものだそうです」
「珍しいな」
「秘書室の女の子達が見つけてきまして」

 ――こういったものは、彼女達に聞くのが一番。

 ふふ、と笑いながら言うと、一瞬だけ政宗の顔が無表情になった。そしてカップを口元に向けてから、すい、とつけてから「用件を言え」とばかりに政宗は手をひらりと動かした。

「本日の予定です」

 ぱら、と小十郎の手が手帳を捲り出す。その仕種を眺めながら、政宗は静かに紅茶を味わっていった。










 一通り予定を確認し、打ち合わせを終えると、政宗はカップを元に戻した。足音も立てずに側に来ていた小十郎がそれを盆に乗せる。そしてそのまま退室していくのが、いつもの朝の光景だ。だが、その日は政宗が引き止めた――カップを盆に乗せている最中の小十郎を見上げながら、PCの電源をいれる。軽い起動音が耳に聞こえ始める。

「――小十郎、ディナーの予約いれておけ」
「は…何名様でしょうか」

 小脇に抱えていた手帳を開く事無く、小十郎は聞き返してくる。それくらいはメモを取らなくてもいいという事だろう。

「俺を入れて二人だ、二人。出来れば個室で」

 視線を合わせないように政宗はPC画面に向う――頬杖をつきながら、画面を見ていれば、小十郎の様子は視界に入ってこない。

「どんな系統のお食事になさいますか?」
「お前の好みに合わせる」
「私の…ですか?失礼ながら、其れですと相手様に失礼になろうかと」

 躊躇を見せた声音に、政宗はやっと顔を起した。背凭れに思い切り背を預けると、ぎし、と椅子が音を立てた。

「じゃあ、フレンチでいい」
「畏まりました。失礼ですが、お相手の方は…」
「野暮なこと聞くなよ」

 困ったように政宗が左の眉を歪める。いつもは流麗な眉だが、こんな時でさえ、さらりと筆で刷いた様に動いていく。

 ――ちり…

 政宗の苦笑した表情を視界に収めると、胸元がじりじりと妬けるような気がしてしまう。小十郎は、ぐ、と咽喉の奥に言葉を飲み込んでから、一礼すると――いつものように盆を片手に持って退室しようとした。
 だが、ドアのところまでくると、小十郎は肩越しに振り返った。いつもはそこで振り返ることもない小十郎だ――だが振り返ってみれば、ばちりと政宗と視線が合う。
 観ていたことを気取られたと、政宗がバツ悪そうに表情を歪める。

「政宗様、項ですけど」
「項…――?」
「情熱的なお相手とお見受けしますが、痕を残さぬよう…お気をつけくださいませ」
「――…ッ」

 片手が――項に伸びていく。その光景を見つめてから、小十郎は静かにドアの外に出た。そしてドアにもたれかかると、はあ、と溜息をついた。

 ――平静を装えただろうか。

 さもすると暴れそうになる感情を押し込めて、小十郎はドアに寄り掛かる。二三度深呼吸を繰り返してから、離れようとした時、微かにドアの中から政宗の声が聞こえてきた。

「少しは妬けっての」

 悔しそうな――拗ねた子どものような物言いに、今すぐにドアを開け放ちたくなる。しかし、此処は会社だ――自分の責務を思い出して、小十郎はぐっと眉根を寄せると秘書室へと戻っていった。












 政宗は若くして社長に就任した。前社長が夭折した跡を継いだ時、彼の片腕として働くことになったのは、好機といえばそうだったかもしれない。
 まだ学生だった時分の政宗を、慕ってきてくれる彼を、可愛いと想わない筈はなかった。兄と慕ってくれるのが嬉しくて――でも、その反面、小十郎の中にはそれとは違う感情が押し寄せて来ていたことも事実だった。

 ――どれだけ、好きだって言えば、小十郎は俺のものになる?

 冗談かと想った告白は、高校を卒業した時、政宗が発したものだった。だがそれも冗談だと受け流してきた。一時の感情だろうと、若さゆえだろうと、そうして言い聞かせてきたが、無駄に終わった。それでも小十郎は首を縦に振ることはなかった。
 そして彼はいつのまにか、社長へと就任してしまった。そうなると、もう立場は変化してしまう。余計に堅苦しくなるしかないが、それでも側に居られることだけで満足する日々が続いていく。

 ――こうして彼を送るのは、俺の仕事だが…

 本当ならば、彼を他の誰かとの逢瀬の場になど連れて行きたくない。そんな風に思いながら、小十郎はハンドルを握っていた。後部座席には、つまらなそうに唇を尖らせた政宗が座っている。

 ――今はまだ仕事中だ。集中しろ。

 己に言い聞かせながら車を滑らせていくと、目的地へと辿り着く。運転席から降りる時に、さらりと髪を撫で上げ――回りこんでドアを開ける。そしてそのまま政宗をエスコートして中に入っていった。
 予約していた部屋に通されると、小十郎は一礼して退室しようとした。

「Hey、待て。行くんじゃねぇよ」

 呼び止められて振り返ると、政宗は自分の前の席を指差す。

「座れよ」
「――――…?」

 其処は相手の席だろうと、訝しく眉根を寄せると、政宗は眉を下げて苦笑した。その顔が、どこか幼く見えてしまう。

「俺が招待したのは、お前だよ」
「は?」

 見入っている相手からとんでもない言葉が飛び出してくる。聞き間違いかと身体を45度に曲げて窺うと、二度も言わせるな、と政宗が強い調子で告げてくる。

「お前を労いたくてさ…まどろっこしい事しちまったけど、偶にはいいだろ?」
「政宗様…」
「厭そうな顔すんなよな。俺の相手、してくれよ」

 ――ひとりで食う飯はまずいんだ。

 本来なら退室するのが常だ――だが、するりと伸びてきた政宗の手が、小十郎の袖口を掴んで離さない。
 つかまれた袖口を見つめてしまうと、頼む、と懇願するかのような政宗に、しぶしぶながら従うしかなかった。

 ――何時の間に、この人は大人になってしまったのか。

 まだ少年のあどけさを見せてくれているうちならば、こんな感情に踊らされることもなかった。だがそれは彼の成長と共に変容した。
 目の前にいるのは、社長として会社を動かしている相手だ――以前の幼い、頼りない政宗の姿は何処にもない。

 ――それでも、この人の側にいて、支えたい。

 その気持ちは変わりない。だが、彼の望む関係になってしまえば、この上下関係が崩れてしまうのは目に見ていた。

「これだけ口説いてんのに、まだ落ちねぇのかよ」
「公私混同したくないんです」

 静かに出されたシャンパンに口を付けながら、政宗が毒づく。それを眺めながら、小十郎は口元をナプキンで拭った。

「お前なら、そこら辺、器用にこなしそうだけどなぁ」
「――…」

 からん、とフォークを伸ばして、小十郎の皿の上から政宗がムニエルを掻っ攫う。ぱくりと口に入れながら、指先で自分の唇を拭って見せる。
 人の食べ注しを掻っ攫うのも、此れが最初でもない。慣れているとばかりに非難もせずに、小十郎がオレンジジュースに口をつけると「酒呑んでもいいのに」と政宗は余計に毒づいた。

 ――送っていくのが誰だと思っているんだろう?

 ふふ、と苦笑いを浮かべると、政宗は頬杖をついた。そしてお決まりのように口にする。

「いい加減、落ちろよ」
「御免被ります」

 首を横に軽く振ると、今度は身を乗り出しながら政宗が甘い声を出してくる。

「小十郎…お前が欲しい」
「浮ついた台詞は他の方にどうぞ」

 ――その項の痕の方にでも。

 皮肉を込めると、はた、と政宗は自分の項に手を添えた。そして俯きながら「これは悪ふざけだよ」と弁明する。

「何の悪ふざけなんでしょうかね?」
「だから…その、お前を試したくて。だから、成実に…」
「成実様にですか」

 口調に刺が含まれている――自分でもそれは解っていた。だが小十郎は業と告げていく。だが一向に乱れない彼に、政宗が今度は折れた。

「なあ、お前、俺のこと嫌いなの?」
「滅相もない。嫌いでしたら、お仕えしておりません」

 ――さっさと見切りをつけて会社を辞めてます。

 新しい皿が運ばれてきて、しばしの沈黙の跡、再び政宗が身を乗り出す。

「じゃあ…」
「それとこれとは別です」

 きっぱりと断ると、政宗は泣き出しそうに眉を歪めた。下唇を微かに噛み締めて、搾り出すように呟く。

「苦しいじゃねぇか」
「――…」
「お前を想うだけなんて、苦しい。俺は、お前の温もりが欲しいのに」

 ぎゅう、と胸元を握りこむ政宗は、そのままネクタイを解いてしまった。そして立ち上がると、小十郎の左手を掴みこむ。

「ほら、触れてみろよ」
「何度も触れていますが」
「俺だって、ちゃんと血が通ってんだ。なあ、一度で良いから…触れてくれよ」

 つかまれた腕の先には、政宗の肌がある。ぐっと理性をきかせて、自身を押し込めると、小十郎はそのままで肩を震わせた。
 掌にはしっかりと政宗の肌の感触がある。それをこの瞬間でも知れたのだからそれでいい。立ち上がると小十郎は政宗の手を振り解き、解けたシャツのボタンを留めていく。

「はしたのうございますよ?」
「…小十郎の鬼」

 途端に幼い頃に――あの告白をしてきた時の、制服を着た姿が彼に重なる。今は仕事をこなす彼だが、小十郎にとっては何の差異もない。

「恋は苦しいもの。恋する醍醐味とお考えください」
「冷てぇなぁ…」

 泣き出しそうになりながら、政宗が小十郎の胸に額を押し付けてくる。腕を回す彼に――答えることなく、ただ小十郎は大木のように其処に立つしかなかった。










「明日はお前が迎えに来い」
「畏まりました」

 食事を終えてから――何度目かになる政宗の告白を断ってから、自宅へと送り届けると、政宗はそんな風に告げてきた。いつもは運転手が送ってくれる。小十郎が此処まで迎えに来ることは稀だ。だが明日は小十郎に来いと、命令してくる。

「じゃあな…小十郎」

 踵を返した政宗の背が、しゅん、と小さくなっていた。たぶん彼はこれから自室に行ってから、何度目かの失恋に涙を流すのかもしれない。

 ――公私混同はしたくない。

 その一心だけだ。一度でも許してしまえば、止め処なくなることは眼に見えている。それが業務に差し支えるなど持っての外だ――火のない所に煙は立たない。だから、火事になってしまう前に、予防策を張っているだけだ。
 だがこの日の政宗の背が、あまりに小さく見えた。

「政宗様」

 気付いたら呼びかけていた。
 腕を掴んでいた。
 振り返った、政宗の瞳が、驚きに見開かれていた。

 ――ふ。

 触れたのは柔らかい唇だった――微かに、甘いシャンパンの味がしたような気がした。触れて、押し付けるように触れて、そして直ぐに離れる。
 小十郎を見上げてくる瞳が、ほわ、と熱を孕んでくる。だが、小十郎はぐっと彼の肩を押し戻すと、いつもの秘書の顔つきになって一礼をした。

「良い、夢を」
「――――…ッ」

 そのまま踵を返して運転席に戻った小十郎は、すぐに車を動かしてしまう。車の滑り込んでいく後を見送りながら、政宗はそっと自分の口元に指先を添えた。

「生殺しにするなよなぁ」

 互いの気持ちは解っている――だけど、大人にならなくてはと、一線を越えることもない。明日から急に二人の関係が変わることもなく、ただいつものように仕事に忙殺されるだけだ。

 ――でも、小十郎は側にいてくれる。

 それを唯一の頼りにするかのように、日々を戦っていく。政宗は自分の唇を指先でなぞってから、くるりと背を向けて自宅へと入っていった。
 翌朝、迎えに来た小十郎に、今度は自分が不意打ちをしてやろうと、微かな決心を抱きながら、ふふ、とただ口の中でくぐもった笑いを零していくだけだった。














香坂様のリクエスト
議員(or会社役員)政宗様と筆頭秘書官小十郎(現代リーマン物)」