目を覚ましてみればベッドに横になっていて、持ち上げた手首にある時計を見て、そんなに時間が経っていないと気付く。
――私は一体…。
フウ、と息をついて横を見て、そして事の経緯を全て思い出した。机の椅子に腰かけているのは青年で、頬杖をつきながら、窓から入り込んできている枝を触っている。通常、手を伸ばしても届かない枝が彼の手に触れる為に伸びている。そのことからも、嫌な予感がした。
――あれはどう見ても…。
どうやって口羽を切ろうか――と思っていると枝が動いて、促されるようにして彼が振り返り、そして明るく微笑んだ。
「三成、気付いたか!」
「――ああ」
「儂、驚かせてしまったみたいだな。すまぬ…」
ぺこ、と頭をさげる彼に、上半身を起こして嘆息した。それと同時に窓に入り込んできていた枝が、しゅる、と戻って行った。後には白い花が机の上に散らばっていた。
「あれは、忠勝、か?」
「そうだ。儂を心配してくれての。こうして花が咲くといつもの姿とは違って実体化できる。普段もやろうと思えばできるが…疲れるんでな」
ぽりぽりと首の後ろを掻きながら家康は下を向いて行った。そして徐々に言葉を濁しながら、身体を小さく縮まらせた。
「どうした、いつもの貴様らしくない」
「いや、その…どうかと思って」
「はっきりしないのは好かぬ」
「咲いたところを見せたかったのだが、三成が気に入ってくれるかは解らなかったから。今までこの部屋で過ごした住人は、時折儂の花の匂いが嫌いだと…窓を閉め切ってしまって」
――そうか。
だからそんなに不安そうなのか、と三成は得心した。美しい花だと公言したのに、この自信のなさそうな素振りはそれでなのか、と三成は頷くと、俯く家康の頭に手を添えて撫でた。
「――みつ…っ」
「私は嫌いではない」
「――…ッ」
「むしろ好きな香りだ」
ふわ、と家康の口元が綻ぶ。そして彼は涙を眼に浮かべながら両腕を広げてきた。一瞬にして抱きすくめられてベッドの上に押し倒される。
「うおおおおお良かったああああああああああっ」
「うぐ…重い…っ!家康、貴様、どけろっ」
狭いシングルベッドの上で、ばふばふと跳ねながら伸し掛かられて苦しくてならない。三成が怒声をあげながらもがくが、家康は喜びのあまり聞こえていないようだった。
「いぃぃぃえぇぇぇぇやぁぁぁぁぁすぅぅぅぅ」
「良かったあああああああ!」
はらはら、と風に舞って彼の金色の花弁が部屋に舞い上がっては入り込んでくる。外も、部屋の中も、甘ったるく、それでいて甘酸っぱい香りに満たされていった。
実体化しても、人間に見えるように実体化する場合とそうでない時がある、と家康は答えていた。そして花木ではあるが花期の短い自分が実体化するのは少しだけ疲れるのだとも教えてくれた。
だから家康はあまり三成と一緒に外をあるいては居ない。花の精を観ることが出来なければ、独り言を言っているようにしか見えないものだ。
「儂はちょっとした野望があるんだ」
「なんだ、それは」
「秘密だ」
しぃ、と口元に人差し指を当てて言う家康は陽光を浴びてきらきらと笑う。休みの日には三成は庭に降りて、家康の木の下で本を読んでいた。陽光の下で本を読むのは疲れるので、いつも後半は寝てしまう。
そんな三成に家康が声をかけて起こしてくれることもあるが、気付けば負ぶって部屋まで連れて行ってくれることもあった。
大学での様々な話を、家康はいつも興味深そうに聞いてくれている。
「うっわ、もう臭ぇ…俺、この匂いキライ」
「ああ、俺もー。これって、昔っから便所の匂いって言わねェ?」
「言うなぁ、言う!」
三成が家康の木に寄りかかっていると、並木を歩く学生の声がした。その内容に三成はカッと怒りを覚えた。振り仰ぐと、しゅん、と項垂れる家康がいる。
――あいつら!
がさがさ、と低木を掻き込んで並木道に踊りでる。すると今話していた学生たちは驚いたように足を止めた。
「撤回しろ」
「は?」
「今言った暴言を撤回しろっ!」
三成が怒りにまかせて叫ぶと、なにこいつ、と学生たちは鼻で笑って通り過ぎる。だってこの並木道に咲く花たちはどれも綺麗じゃないか。それをあんな風に貶める言葉を向けるなんて酷いではないか。
「こんなに素晴らしく咲いているのに…今すぐ、暴言を撤回しろ!撤回せねば…」
「ばっかじゃね?ただの花だろ?」
「くっせぇんだよ。鼻がいてぇっての。それに見ろよ、散ったら散ったできったねぇ」
「己、貴様ら…っ!」
通り過ぎようとする学生に力任せに拳を振りあげ、再び叫ぼうとすると、背後からがっしりと掴まれた。何事かと思えば家康が三成を止めている。
「それじゃダメなんだよ、三成」
「だが…っ」
「仕方ない事なんだ」
家康が首を振る。そして三成を止めた家康が学生二人に苦笑した。すまん、と頭を下げると彼らはそのまま学生寮に入って行った。
ふうふう、と荒い呼吸を繰り返して三成は乱暴に家康の腕を振り払った。そして、ざくざくと低木のなかに入り、再び定位置に座った。座ったまま、黄金色の花弁を下にして、ごろり、と横になる。
「何が…こんなに良い香りだというのに」
「三成」
まだ怒りが込み上げる。三成が横になっていると、家康が嬉しそうに微笑んで、瞳に涙をたたえて「ありがとう」と告げた。
ふん、と鼻息で軽く払って瞼を落とすと、ぽと、と頬に濡れたものが落ちてきた。それが家康の涙だというのを、気付いていても慰めるだけの力は自分にはなかった。
小さな花は本当に小さくて、それが寄り集まっている。毎年、一枝、家康から貰って部屋に置きながら、三成は過ごした。晩夏になると花期になる彼は、ほんの少しの時間を青年の姿で過ごし、それ以外では三等身の姿で過ごす。
そうしてあっという間に三年が過ぎた。
「暫く俺はまた修行に出るんだけどな」
「それも良かろう」
政宗が進学について言うと、元就も頷く。二人の卒業に付き合って帰る最中、別れる時にふと気づいた事があった。
――これは、梅の香り?
ふ、と政宗から香った香りに、古風な人ではないか、と三成が鼻を鳴らした。すると不意に政宗に声がかかった。
「政宗さま」
「おう、小十郎。やっと卒業だぜぇ」
「はい、おめでとうございます。元就殿、貴殿もおめでとうございまする」
現れた男はどうやら彼らとは知り合いらしい。互いに頭を下げ合って、それから彼は政宗を支えるようにして横にならんだ。
そして彼らが手を振った後に一度道を歩き出し、振り返ってハッとした。
――あれは?
三成の眼に見えたのは、元就の肩に乗っている銀色の――三等身の小人だった。もしかして彼らも花の精が見えるのだろうか。だとしたらもっと、沢山話すこともあったかもしれない。
三成はそんな風に思いながら、寮に戻って行った。それから数年後、再び彼らに出会うことになるとは、この時にはまだ予想もしていなかった。
既に三年生の時に内定をもらっていた三成は、翌年の退寮日を前にして荷造りをしていた。それを三等身の家康が見つめて――そして翌日にその日が近づいた日には窓辺に立っていた。
「明日で此処ともお別れだ」
「そうだな、楽しかったな」
「ああ…思いがけず、といった所か。感謝する」
「儂だって…」
「これからもよろしくな」
「――…」
ベッドに腰掛けて言うと、家康は窓枠に寄りかかって、足元をもじもじと動かした。そして俯くと、じわりと涙を眼に溜めていく。様子の変化に三成が怪訝そうに覗き込んだ。
「家康?」
「すまぬ。儂はついて行けぬ」
「え…」
ぶるぶると三等身の小さな体が揺れる。だが告げられた拒絶の声に、どくどくと鼓動が跳ねた。一体、家康は何を言っているのだろうか。
「儂はここの花木だ。ここから動くことは出来んのだ」
「なんだと…」
「お前について行こうと、一生懸命、自分を接ぎ木してみたが、難しくてな」
「接ぎ木…」
小さな手をぎゅっと握って、頬を真っ赤に染めて泣き出す家康に、三成は身体から力が抜ける思いがした。
言われてみれば理に適っている。しかし彼と馴染んだ4年間が、離れるという事実を考える隙間を与えてくれていなかった。当然のようにしてこれからも続くと思えた日々が、がらがらと音を立てて崩壊していく。
「私と離れることは赦さない」
「三成…っ」
絞り出した声に、家康がおびえた声を上げる。そして三成は声を荒げて叫んだ。
「許さないからな、家康っ」
「――…っ」
くる、と家康が背中を見せて震える。そのまま彼の背中越しに、大きな水たまりが出来てくのを観ながら、慰めることも何もできずに別れた。
退寮の日――家康の木の下を通ると、さわさわ、と風もないのに揺らめいた葉に、一度は足を止めたが、振り返ることもせずに三成は並木道を通り過ぎて行った。
就職してから一日の流れに慣れ、新しい生活にも慣れた。成績も悪くないし、それなりに充実した日々だと思う。だが少しだけ心に、ぽっかりと空いた穴があった。
それを観ないようにしながら、三成は日々を過ごしていった。そうして春から夏、そして秋へと季節は移行していた。
仕事帰りのとある日、暑かった空気が一変し、首を絞めるかのようなネクタイを緩めて、ふ、と視線を横に向けて足を止めた。
「和カフェ:カレイドスコープ」――その看板が目に入り、ふらり、と足を進めた。そしてメニューを外に出ている看板で見つめていると、ぐい、と肩を掴まれた。
「三成っ!」
「――?」
呼びかけられて振り返った。そして三成は、ばさ、と持っていた鞄を取り落した。肩を掴んで、そして息せききって其処にいるのは――実体化した家康だった。
彼の手には、小さな鉢植えがある。
「いえ…や、す…?」
「良かった、覚えていてくれた」
ぶわり、と家康の瞳に涙が込み上げる。そして茫然とする中で彼は「良かった」と何度も繰り返して抱きしめてきた。
「――…」
何故か解らない。単調な毎日を過ごす中で、いつも忘れられない姿があった。苦しい時には語りかけたい相手がいた――傍にはいてくれなくて、何度恨み言を言ったかしれない。それなのに、その相手が今は傍にいる。
三成はゆるゆると手を伸ばすと、家康の背中をとんとんと叩いた。
「お前、こんな遠出を…」
「儂はもう自由なのだ。これを」
差し出された鉢植えは、見事に金色の花を光らせている。それはよく知った香りだ――それもその筈で、四年間ずっと嗅いでいた香りだった。
「儂の本体がな、斬り倒されて…その時に、株を分けた。この花咲く時期を待って、待って、探しにきたんだ」
「――無茶をする」
「ああ、だって三成に逢いたかった。それにまだ野望を達成せぬまま、消えることは出来なくて」
店の前だというのに、抱き合ってお互い目元を真っ赤に涙で腫らしていく。そうして少しだけ昔話をしてから、店のドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
元気な作務衣姿の青年の声に迎えられる。そして厨房の奥から「ああああ!」と大きな声を上げた青年に、奥から店主らしき青年が顔をのぞかせる。三成は珍しく微笑んでしまった。
向かい合って食事をとる。それも久々の事で、それだけなのに涙腺が緩みそうだった。そして口に含んだ食事がやたらと美味しく感じた。
「お前の野望とは何なのだ?」
「もう叶った」
家康はさつま芋の味噌汁を啜り、茸のふんだんに入った炊き込みご飯を掻き込みながら笑う。向かいで冷たいざるうどん――これにも山菜のかき揚げと、三種類のタレ、それから夏の名残を感じさせる錦玉寒がつけられている――を掻き込みながら問う。
「言ってみろ」
「お前と、一緒に並んで歩くこと、だ」
――何度も言わせるなよ?
笑う家康の向かいで三成が盛大に噎せたのは言うまでもない。そして揺れる卓上で、はらはら、と金色の――匂い立つ金木犀の花弁が零れて行った。
*家康は金木犀。忠勝は銀木犀。逆転お花ちゃんとリンクしています。